あなたはいま文章を書いているとする。突然、他人があなたのペンを奪い、あなたが書いていた文章の続きを書き始めたとしたら、あなたはどう感じるだろう。
あなたは戸惑うだろう。その人に対して、怒りを覚えるかもしれない。一方で、あなたはその文章をもう書かなくていい、と楽に思うのかもしれない。
学校の課題や仕事の書類をChatGPTに書かせるように、私たちは日々、なるべく書かないようにしている。どうして私たちは書きたくないのだろう。書くことがつらいと感じる以上に、書くことの本質にその理由が隠されているのだと思う。
書くという行為は私たちを書くことだけに向かわせる。書きながら他のことをすることはできない。書きながら本を読むことはできないし、書きながら映画をみることはできない。書くことは、書くことに私たちを迫らせる。
いまの社会を生きている私たちは、常にマルチタスクを迫られているから、その社会は書くことを要請しない。というか、書けない。書けない社会に生きている。
でも、他方で、私たちは自分の書いた文章を他者に介入されることを極端に嫌がる。私たちは自分の言語を他者から守ろうとする。とくにパレスチナの人々にとって、自分の言語を守ることは喫緊の問題である。イスラエル軍が集中的にパレスチナの研究機関や図書館を爆撃しているのは、まさにパレスチナの人々の言葉をイスラエルが破壊しようとしていることを象徴している。イスラエルはパレスチナの人々の歴史を書き換えようとしている。そして、私たちはこの書き換えを防ぐ必要がある。パレスチナの人々など抑圧されている人々にとって、自分の言葉で語ることは非常に重要なことである。
前、自分の言葉で語る必要がないことは特権であると書いた。それは私たちが学校の課題といった「書かなければいけない文章」をChatGPTに書いてもらえることであれば、自分の言葉を放棄することが自分にとって利益になると考えられることでもある。それは私たちには自分の言葉がないということでもある、ということは前回書いた通りだ。
とはいっても、私たちは自分の書いた文章をあたかも自分のものとして扱う。自分の書いたものは自分の所有物であることは今となっては、著作権や知的財産という法的な規範となっている。けれでも、私たちはその所有をあっさり手放すことを平気でしている。
中学生のとき、同級生に宿題を写したいと言われ快諾したら、先生に写したことがバレて、写した同級生とそれを承諾した私の二人とも先生に叱られたことがある。そのとき、ぼくは宿題を写すことが問題だとは思っていなかったので、快諾したのだと思う。ぼくの宿題を丸々写した同級生は、宿題に取り組む労力を、他人の言葉をパクることでなくそうとした。このとき、先生にとって問題だったのは、なんだったのだろう?どうして二人とも叱られたのだろう?写した同級生は、宿題という生徒全員に平等に与えられる労働をしなかったことによって罰された。写すことを承諾したぼくはというと、同級生が罰されたのと同じ理由で罰されたのではなく、自分の言葉をあっさりと他人にあげたことによって罰されたのだ。そのとき、先生たちのなかには、「自分の言葉は自分のもの」だという規範があり、ぼくはその規範を抜けてしまったのだ。
自分の言葉がないのにもかかわらず、(他者の)言葉を自分のものにしようとする。
アイデアはこうだ。私たちは大きな紙になにかを書く。決められた時間ごとに私たちは移動し、他の人が書いていたことを引き継いで書かないといけない、それは他者の言葉を自分のものにするという行為だ。このとき、おおまかに二種類の行動がとれる。一つ目は、他者の言葉を自分の言葉にしてしまうこと。それはイスラエルがパレスチナの歴史にしていることのように、他者の言葉を捻じ曲げ、自分の利害に沿った形に変更することだ。二つ目は、他者の意思を引き継ぎながら書くということ。これは代弁ともいわれることで、他者がなにを書きたかったのかを想像しながら、他者の言葉のまま書くこと。これは一見、他者の言葉を他者の言葉のままにしておくという意味で「優しい」のかもしれないけど、自分が書いているという意味では他者の言葉ではなく、すでに自分の言葉になってしまっている。
スピヴァクは、自分とはまったく異なる、抑圧され周縁化された他者(サバルタン)を代弁することは不可能であると言っている。
わたしは他者とともに書くことに希望をもっている。しかし、それは特権をもっているからこその希望なのかもしれない。でも、そう思いたくない自分がいる。だから、やってみる。それで確かめてみる。そこに希望があるかどうか、を。
☆自分の言葉が自分のものになっているのは、自分ひとりで書いているからなのでは?
伝言ゲームのようにリニアに考えているからよくない。複数人が同時に書く方法。