自分じゃない言語で書くこと:その1

shogo
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ひとりで書くときのことを想像してほしい。椅子に座って、机の上に紙を広げ、利き手にペンを持ち、静かに文字を書く。でも、どうして?どうして椅子に座って、机の上に紙を広げ、利き手にペンを持ち、静かに文字を書くのだろう?誰にも指示されていないのに。

書くとき、わたしたちはさまざまな見えないルールのようなものにしたがっている。もちろん、これらのルールは法律のように条文があるわけでもなく、従わないといけないきまりもない。でも、それに従っている。立って書くことだってできるし、床に座ってだって書くことはできる。動いていたって書くことができるのかもしれない。

空間を移動しながら書くことを想像してほしい。座って書くのとなにが違うのだろう。書くことは変わるのか。書かれる文字はぐちゃぐちゃになるのか。どのようにペンを持ち、紙を支えるのか。

移動しながら書く。それはポストコロニアル文学と呼ばれる文学を書いてきた人たちがやってきたことだ。彼らは移動することを余儀なくされ、それでも移動しながら物語を書いた。そのとき、彼らは書く言葉を植民者によって奪われた。植民者はもともとそこにあった言語を奪い去り、自分たちの言語を植えつけようとした。被植民者は植民者の言語を使い、それでも植民されることについて書いた。

移動すること、それによって言語を失うこと。そして、自分ではない言語を植えつけられること。そして、それを使うこと。それが植民者への屈服ではないとしたら、なんなのだろう?