自分じゃない言語で書くこと:その3

shogo
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最近、京都に引っ越した。京都では多くの人が関西弁を話している。正確には「京都弁」と書いたほうがいいのかもしれないが、私は方言について明るくないので、ここではおおまかに「関西弁」という言語について書くことにする。

京都に数日いるだけで、私は関西弁という<自分じゃない言語>を話したいという強い欲望を覚えた。それは関西弁に自分の身体が侵襲されている感覚だと言い換えてもいいのかもしれない。自分じゃない言語に自分の身体を乗っ取られる感覚。ほかの自分じゃない言語でもそういう感覚を抱く瞬間はあるのかもしれない。けど、関西弁への身体の乗っ取られ方はほかの言語と一線を画しているように思える。

私は高校生のころまで大のテレビっ子だった。とくにバラエティ番組が好きで、毎晩のように観ていた。リビングで学校の宿題をしながら、テレビを垂れ流していたほどだ(テレビを観ながらでも宿題をしていたことは、いまの自分からしてみればありえない)。バラエティ番組では関西出身のお笑い芸人が多く出演している。関西弁で話し、関西弁でボケて、関西弁でツッコむ。「関西弁はお笑いに向いている」という嘘か本当かわからないステレオタイプを何度も聞いたことがある。

私はテレビを通じて関西弁を毎日のように耳にしていた。かならずしもそのことが私を関西弁を話したいという気持ちにさせたわけではない。でも、京都に移ってから周りの人々が関西弁を話しているのを聞いていると、自分も関西弁を話したくなる。それはたぶん私が関西弁を話すことを他者に聞いてもらうことで、他者に自分のことを関西人だと思ってもらいたいからなのだろう。言語を通じて関西という土地に所属することを求めているのだ。コミュニティから異質な存在として認識されたくないという感情が働いているのだろう。自分じゃない言語を自分のものにしたいという欲望は、その言語と結びついている場所をも自分のものにしたいという欲望でもあるのだ。

その一方で、私は関西弁を自分じゃない言語のまま、自分のなかに取り入れたいという、関西弁を話すことにたいして矛盾した態度をとっている。私が関西弁を話したいということは、関西弁という自分とは異質な言語を自分の身体に取り入れたいというマゾヒスティックな欲望もある。

普段は使わない、でも他者が使っているのを聞いたことがある言語を使ってみることは怖いが、その怖さの裏には怖いもの見たさがあったりする。関西人相手に、普段は使わない関西弁を使ってみると、自分が完璧な関西弁を話していないのではないか、それを相手に指摘されるのではないか、という恐怖がある。しかし、その恐怖をも上回る快感がそこにはあるのかもしれない。それはたんにそのコミュニティに属するという快感以上のなにかがあるのだと思う。

自分じゃない言語を自分じゃない言語のまま、自分の身体に取り入れられることは、とても特権的なことのようにも思える。自分じゃない言語を取り入れたとしても、私には自分の言語=「標準語」がある。コミュニケーションをとれることが保障されたまま、新たな言語を獲得することができる。

言語と場所は密接に結びついている。ある言語を話せる/獲得するとは、その言語が話されている場所を自分のものにするということだ。しかし、考えなければいけないのは、自分の言語があるということは、自分の場所があるということでもある、ということだ。だからこそ、私たちは自分じゃない言語を自分じゃない言語のまま、あたかも自分の言語のように使うことができる。だが、自分じゃない言語を自分のものにしないといけない人々にとって、自分じゃない言語は自分の言語を奪ったものであり、同時にそれに依存しないと自分のことを表現できない両義的なものでもある。私たちはこのことをどう考えるべきなのだろう。