連休中、久しぶりに学生時代の友人に会った。そこで思ったことがある。
アニメを見なくなった。
学生時代はそこそこあったアニメの視聴本数が徐々に減り、ここ数年はゼロ本だ。
ただよくよく考えてみると、アニメは好きでも見始めるのは昔から苦手だった。
「見始める」のが苦手なのだ。
録画ソフトなり配信サイトなりを立ち上げて見てない話を選ぶ。それだけの手間に腰が重い。
見れば楽しめるのはわかっているのに、これから二十数分拘束されると思うと気が滅入る。貧乏性のようなものだろうか。
適当にネットサーフィンして1時間を無為に過ごすことはよくあるのに、時間を使うのが最初から分かっているとかえって動き出せない。
思えば、アニメを見るハードルを自分で上げすぎているのが良くない。
腰を据えて目を皿のようにして見て、脚本や演出の意図を読み取りたいと思っている。
作り手へのリスペクトは結構なことなんだろうが、見ないのは本末転倒も良いところだ。
いらない完璧主義が自分の足を引っ張っている。
時間の貧乏性に、無駄な完璧主義。
この二つが合わさって時間を上手く使えないことが多く、そのたびに後悔して焦燥感に駆られている。損な性分だ。
じゃあ、着手を早めて時短を頑張れば、焦燥感から解放されるんだろうか?
そう思って、読書法を磨いた。次に読む本をバックログ管理して手に取るまでの時間を減らし、短い時間で本を読める方法を身につけた。
すると、本を読むとき余計に焦るようになった。
一度時短を意識すると、読書中もずっとそのことが頭のどこかにちらついてしまう。つくづく損な性分だ。
ハードルを上げすぎて、やりたいことをやれなくて焦る。やりたいことをやっていると、時短にこだわって焦る。そしてやりたいことは勝手に増えていくのでまた焦る。
なんだかずっと焦っている。
永遠に終わらないスタンプラリーをやっている気分だ。
スタンプを押さないわけにはいかないけども、押したところで延々と次が待っている。ゴールはないので、満足することもない。
満たされないまま、気がついたら老後を迎えていそうである。
このゲームから降りるにはどうしたらよいだろう。
考えたらひとつだけ方法があった。自分が楽しむのではなくて、他人が楽しんでいるのを楽しむことだ。
自分の行動はコントロールできる。そのせいで、心理的なハードルを上げたり時短に走ったりする。もっと楽しいことはないかと欲は尽きない。
一方で、他人が楽しむのはコントロールできない。心理的ハードルも時短への意識も必要ない。自分はなにもせず、その人が楽しんでいるのを見守るだけだ。
地獄のスタンプラリーからおさらばできる。
これって、老後に孫を見て喜ぶ精神なのかも知れない。
子供と違って、孫には子育てのプレッシャーがない。
孫の楽しみを自分の楽しみとしながら、何にも追われることなくゆっくりと過ごす。
「やり残したこと」なんて考える必要はない。人生の主人公を孫に譲った状態だからだ。
素晴らしい老後だ。
結論めいたものにたどり着いた。
しかし、ここでまた一つ残酷な現実に気付いてしまった。
こんな老後はお金と健康なくして過ごせない。
いま馬車馬のように働いて、かつ健康を維持しておかないと、孫の成長を喜べない。今は生き急いでおくしかないようだ。
孫どころか子も産まれてないが、早く孫の顔が見たい。