「死にたい」子どもだった。「死にたい」は希釈されたり、濃縮されたりしながら、今もわたしの中にある。
希死念慮というやつは、みんなすぐ側にいるやつなんだと思ってた。どうやらそうではないらしい。子どもの時はまあそうかそんなもんかと思っていたけど、大人でもすぐ側にいない人が多いらしい。本当に?信じられない。
ねん‐りょ【念慮】
あれこれと思いめぐらすこと。また、その思い。
仏語。凡夫の浅い智慧であれこれと思いめぐらすこと。また、その思い。
この世からいなくなる勇気も度胸も思い切りもなければ、生きねばという気持ちもない。"人生は壮大な暇つぶし"という言葉を聞くこともあるけれど、暇つぶしにしてはあまりに長く辛い。子どもを一人前にするまでは死ねないという気持ちもわかない。子どもには精神的な辛さは起こりえるだろうが、生活に困るようなことは起きないだろうと予測できる。子どもの成長を見届けられなかったとして、まあ仕方ないか、と思う。私に起こりえる無念に近いような感情は、待ち受ける無が全て包み込んでくれるだろう。"責任感"というものを恐らく人並みに持ち合わせておらず、私がいなくなることによって生じるであろう多少の不都合も、まあそう大きな困りごとには至らないであろうからどうにかなるでしょう、出来る準備はなるべくしておくのでよろしくお願いしますという気持ちである。
こういう人に限っていつまでも生きていたりするんだろうな。恥ずかしい。
「死にたい」のかけらを瓶にギュッとつめて、インターネットの海に流す。