反哲学史

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狭義に「哲学」とは古代ギリシア以降近代に至るまでの西洋における一種の試行のフレームワークである。反哲学とは、そういった哲学というものが暗に依拠してきた前提を解明しその相対化を試みるニーチェに始まった思想である。

ソクラテス

ソクラテスが生きたアテナイには、ソフィストと呼ばれる人々がいた。ソフィストとは政治や思想について議論する人々なのだが、実態としては詭弁術を弄して議論したり、また詭弁術を人に教えたりしていた。ソクラテスはソフィストを相手に質問攻めにし、その詭弁の論破をしていた。一方でソクラテス自身は「無知」という立場を根拠に、質問攻めにするばかりで自らの意見は決して示さなかった。

ソクラテス以前の思想は主に自然を中心に考え、その延長で人間も考えるものであった。ここでいう自然とは、いわゆる文化に対立する形での自然ではなく、「ありのままの形」といった意味でった。しかしソクラテスが登場する少し前からその状況は少しずつ変化し、人間を自然からの逸脱とする見方が強まった。一方で人為的な存在であるノモスに対してフュシスを高く位置づけていた。次第にその考え方がソフィストたちに悪用され、ノモスである限りはフュシスではないのだから、みな同じだといった主張をもとに、アテナイは衆愚的な状況に陥っていた。これがソクラテスが生きた状況である。

あらゆる立場や主張を否定するソクラテスのスタイルは、当時暗に前提とされてきた種々の思想を徹底的に無に帰し、プラトンによって打ち立てられる遥かに洗練された思想が登場する舞台を準備したと言える。

プラトン

プラトンはそれまでのフュシスを中心とした存在論から、全く新しい「イデア論」を立ち上げた。イデアは事物の本質のことであり、イデアに直接見たり触れることはできないが、すべての事物に備わっているものである。我々が直接経験することができるのはイデアの仮象に過ぎず、個々の事物は時々刻々変化していくのに対してイデアは永久不変だと考えた。我々は純粋な三角形というものを見たことがないのに、その本質を知ることができるというのが良い例である。

イデア論がそれまでの存在論と大きく異なる点は、そこでは「形相(エイドス)」と「質料(ヒュレー)」が対立している点である。このような相違はプラトンが存在を人間の「制作」を基礎として考えたことに起因する。それまでの認識は「生成」であったため、形相と質料は不可分のものであった。したがってプラトンの存在論は当時のギリシア人には幾分違和感のあるものだった。

さらにプラトンは存在を本質存在と事実存在に分解したことに加えて、前者を後者より優位に置いた。そのような存在論のもとではフュシスはその絶対的地位を奪われ、ただイデアが実体化するための素材を提供する存在に成り下がった。ここにおいて自然と物質を同一視する「物質的自然観」が成立する。したがって、物質的自然観は「制作的存在論」の成立に伴ってうまれたことになる。

プラトンは無目的にこのような当時は不自然な存在論を創設したわけではなく、堕落の一途をたどる祖国アテナイを再建するという極めて実践的な関心からであった。「成る」ことに重きをおく自然観においては堕落を避けられないのは明らかで、より積極的な市民や国家を求めていた。

アリストテレス

アリストテレスはプラトンを批判的に継承した。プラトンの存在論は極端に人工的な制作物に依拠していた。これでは生物的な存在を説明することができなかった。現実の存在はイデアの単なる模造に過ぎないとしたプラトンに対し、アリストテレスはここの存在の中にあらかじめイデアが備わっているとした。そのイデアが個物の変化はそのイデアが現実化していく過程と論じた。一見するとアリストテレスの哲学は反プラトンでありながら、実際には本質存在と事実存在の区別や、純粋形相(イデア)の優越など、プラトン的フレームワークの範疇の批判であった。したがって、いわば広義のプラトン主義ともいえる。

キリスト教との融合

プラトンーアウグスティヌス主義的教義体系

プラトン哲学は永らく実際的な影響力はもたなかった。それが変わり始めたのがプラトンの死後1000年近い4世紀。キリスト教がローマ帝国末期に国教として認められ、教義体系の整備を必要としたときである。なぜこのときプラトン主義を下敷きとすることが好都合だったかというと、世俗の世界と神の世界を明確に区別するからである。それにより帝国との棲み分けにも筋が通るし、斜陽の帝国との共倒れも避けられたからである。この理論的整備を大成させたのはアウグスティヌスである。

アリストテレスートマス主義的教義体系

13世紀に神聖ローマ帝国皇帝がが教皇によって戴冠されるようになると、世俗と宗教の区別というプラトン的教義との矛盾が目立つようになる。そこで教義の理論的再整備が必要とされ、その際にアリストテレスが下敷きとなった。アリストテレス哲学は、純粋形相を現実の延長線上で考えるため、世俗の支配にも手を出す当時の教会にとって都合がよかった。しかし、世俗支配に手を出した教会がいかに腐敗したかは想像に難くない。このスコラ哲学を大成させたのがトマス・アクィナスである。

デカルト

デカルトは大きく2つのことに取り組んだ。前半は「汎方法主義という形式の普遍学」、後半は「数学的自然科学の存在論的基礎づけ」。ガリレイなどの天文学者が自然現象などの感覚的経験に数学的観念を適用することにより、自然 科学が発展していた。特にガリレイは自らの発見を認識論的に反省し、数学的自然科学の「方法」を確立した。デカルトも同様にそれを重要視し、天文等の特定の分野で確立されていた、数学によって感覚的事物を量的関係に還元することにより認識を確実なものにする、といった方法をあらゆる分野に適用する普遍学を構想した。その後、関心はその方法の存在論的基礎づけ、すなわち数学によって自然が説明されることの必然性の論証、に向かった。その論理の順序は、1. 自然のような偶然的なものではなく、懐疑する私という疑いようのないものから始める 2. 懐疑する私は神の似姿であり、その理性は神の理性からあたえられたものである 3. 純粋な生得的観念である数学は必然的なものである 4. あまねく存在は上に寄って創造されている以上、数学によって支配される。デカルトが近代的存在論の先駆けとされる所以は、人間の理性を存在論的超越に据えた点である。以降、超越論的な理性「主観」とそれによって存在を基礎づけられる「客観」という図式が近代哲学の基本的構図となる。その後の近代哲学は2つの方針をとる。一方はニュートンに代表される客観的世界の合理的構造を解明する。他方は主観の超越性を探求する。