あのマンガが発表されたときはインターネットがそれは大騒ぎになったから、あのときあれを読まなかった人はいないんじゃないかって思う。わたしは『チェンソーマン』は絵も話も苦手で少ししか読んだり観たりしていなかったし、藤本タツキの風変わりなTwitterアカウントのことも知らなかった。藤本タツキがどんなふうにマンガ家になったのかも知らなかった。それはいまも変わらない。でも「ルックバック」はすごいマンガだと知っている。すごいマンガだ。だから、たしか、2度しか読めなかった。最初に読んだときと、たしか一部の言葉が修正された後のものを読んだような気がする。あのときの指摘はもっともだったと思うし、それを受けて修正したのはよい対応だったと思うし、結果的にこれほどの強度をもつ作品になったのだから、偏ったイメージの言葉が残らなくなったのはよかったと思う。そういうところにも、人の営みはある。あるし、残る。
映画が公開されたのは1ヶ月ほど前で、今日になるまで観に行かなかった理由はいくつもあるけれど、はっきり言えるのは、映画館に観に行ってよかったということだ。大きなスクリーンに映った背中。これは背中の映画で、大きなスクリーンに映る背中を見る映画だ。適度に他の観客が入った映画館の真ん中からすこし後ろ寄りくらいの位置を選んで座ると、スクリーンと自分のあいだに知らない人間の背中が入り込んでくる。そうやって観る映画だ。
あのマンガが発表されたときは誰もがあれを読んだだろうと思うけれど、読まなかった人もいるだろう。どんな物語なのかを知らずに映画を観るということがどういうことになるのか想像ができない。そういう人もきっと大勢いるだろう。
マンガ家の末次由紀がnoteに掲載していた鑑賞記を読んでいたことも影響していたのだと思うけれど、わたしは映画が始まってほんの5分くらいでもうボロボロ泣いていた。4年生の藤野が京本を知って、描いて描いて描いて描くシーン。努力。いや、たぶん努力ではない。そうしなければいられなかったんだろう、藤野は。描いて描いて描く。それは、努力とか救いとかと言ってもいいんだけど、なんていうかもっと意識のないようなものなんじゃないかとわたしは思う。ただ、とにかく、描く。描いて描いて描く。それをする人間だったんだ、藤野は。
原作マンガが映像化されるに当たっては、当然さまざまな取捨選択がなされているわけで、もしかしたらマンガでは藤野がどのような人間なのかしっかりと読み取ることは難しかったかもしれない。映画になった藤野は、2年間を描くことに使ってしまえる人だったし、その先の人生にも絵とマンガがある人だったってことが、よくわかるような気がした。そういう人だから、ラストシーンで、自分が描いてきたマンガの最新刊の「次巻につづく」を見たときに前を向いたんじゃないかって思う。
映画『ルックバック』は、映像作品としても、マンガの映像化作品としても、アニメーション作品としても、意欲的で高品質な取り組みをしていたと思う。そういう話もしたいのだが、ボロボロに泣いていたのであまりそういう点を思い出せない。主演俳優のふたりは素晴らしかった。河合優実は声優もできてしまう。ふだんの河合優実の声として聞こえたのは、終盤、仕事の打ち合わせを電話でしているシーンくらいで、少女期などはずいぶん印象が違ったけれど、しかしすこしも違和感はない。吉田美月喜は山形弁のセリフも素晴らしかった。いい制作チームが組まれたのだなと思う。
卒業証書を届けた日に藤野が京本に言った言葉は、半分は出まかせの嘘だったけれど、すべてが嘘であるならネームを描くことはできなかっただろうから、本当に頭のなかではマンガができていたんだろう。空手道場に通った世界の藤野もきっと、本当にマンガを描き始めていただろう。
失われてしまったものはある。決して取り戻し得ないものはある。それでも。わたしたちは、「それでも」と言いながら進む。