依頼いただいた仕事が、ちょっと久しぶりに人文とか批評とかの勉強をちゃんとしておかないと失敗しそうなやつなので、急ごしらえでグッとインプットしている。並行して他の原稿を片付けないといけない。なんとかしよう。
批評と考察は違うもので、この何年かは本当に「考察」が圧倒的に市民権を得ている世界で、考察はファンがやっているものであり、その延長に批評があるわけではなくて跳躍がある。跳躍があるということは、読むのも大変だし書くのも大変だということで、そうか、わたしは大変だから読めなくなったし書かなくなったんだなあと思う。
批評はけっこうわりと攻撃性があるというか暴力的なところがある。それは優れたフィクションにもあるもので(たとえば『虎に翼』はとても批評性を帯びた作品であり、そのためもあって非常に強い力をもった作品だ)、人を殴るようなところがある。強いものはおもしろい。人は強いものに惹かれる。強く言い切る言葉に惹かれるばかりではアジテーションされて動員されて思考を止めてしまうかもしれないけれど、強いものには惹かれるのだ。
そういうものを読めば当然ながら影響を受ける。影響を受けることは疲れる。疲れるからやめてしまう。
また、そういうものを書こうとする場合、書くときにも痛みがある。痛みがあるべきだろう。こんなことを書いてもいいのだろうか、自分にこんな強く言い切るような言葉を使う資格があるのだろうか、自分の見つけた視点は本当に画期的で文章にする価値のあるようなものなのだろうか、これを書いて公開することにどれだけの意味があるのだろうか、誰かを傷つけないだろうか、誰かに傷つけられないだろうか、そういうことを考えながら書くのだとすれば当然疲れる。疲れるからやめてしまう。
疲れるからどうした、と思う。疲れるけど、やるんだよ。だっておもしろいのだから。おもしろいんだった、これは。
何かを書こうとして、書くのをやめてきた。面倒だから。書くことが面倒なんじゃなくて、予防線を張るのが面倒だった。そういうのが面倒な時期が、長くあった。でも、もういいんじゃないか、書いても。
ツイッターから離れて、東京からも離れて、なんとなく周縁にいるような気分を1年以上続けてきて、なんか、いいような気がする。
そんなことを、妙に喧嘩腰の作品批評や、まっすぐにオタク語りな作品批評を集中的に読んだり観たりしていて、思った。