大吉山に登る

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高坂さんの声に呼ばれるように、また山を登った。

大吉山は、宇治にある里山だ。高さ131メートル。京阪電車の宇治駅から10分ほど歩くと宇治神社、そこから少し坂を登ると宇治上神社がある。大吉山へ登る道はその参道の先で、舗装こそされていないけれど整備された歩道を20分も登れば山頂近くに着く。展望台からの眺望は美しく爽やかだ。

もっとも、この山に登る人はほとんどいない。小さい子どもを含む家族連れや高齢のグループが何組かいる。ひとりで登っている人も何組かいる。散歩の延長にあるけれど、気をつけなければ痛い目を見る可能性は十分にある。登山道の途中には近くの小学校の卒業記念植樹がいくつも植わっている。「ドラえもん」の学校の裏山はきっとこんな山だろう。

大吉山に登るのは3回目だ。

前にここへ来たのは、あの悲しい事件のしばらくあとだった。暑い日だったという記憶がある。現場の近くに設置された献花台に行き、手を合わせた。近くの駅から少し歩く。そこにいた人たちのことを思う。このコンビニで弁当を買ったのだろうかと。このファミレスで愚痴を話し合ったのだろうかと。同時に、事件を起こしてしまった人のことを想像する。衝動を抱えながらこの道を歩いたであろうその人のことを想像する。わたしがその人ではなかったことの意味を考える。自分にできることなど何もない。あの山に登ってみようと思う。山を登り、山を降りる。

2019年8月24日。わたしはTwitterにこう書いている。

山道を歩きながら、わたしはなにも考えない。暑いし、脚も痛い。これは弔いではない。これは、わたしのためのわたしの祈りだ。

2024年。

大きな地震が起こった。亡くなった方が何人もいる。まだ生きるはずだった人たちが死んでしまったことを思う。何人も。新年を、いつものような新年として迎えるつもりだった。わたしも。わたしは生きているのだけれど。生きている。

1月6日、家人が出掛けるため、ひとりで過ごすことになった休日。淡々と日常を進めていきたいという思いと、非日常をつくって気持ちを切り替えたいという思いがある。そうだ、京都に行こう。いま住んでいるところから京都はすぐ近い。馴染みのある宇治に行こう。そう思い立ったときのわたしは、前回のことをまだ思い出していない。

宇治は『響け!ユーフォニアム』の舞台であり「聖地」だ。アニメ第1シーズン第8話で主人公ふたりは大吉山に登る。「どっちの神社が好き?」と高坂さんが言う。宇治神社も宇治上神社もしずかだ。宇治は「菟道」とも書く。神社にはウサギが祀られていて、干支にかかわらずウサギの置物が売られている。おみくじの入った小さな置物をひとつ買う。大吉だった。

ウサギの置物

高坂さんが大吉山に登ったのはお祭りの夜だ。お祭りの日にわざわざ山に登るような馬鹿なことをする人はいない。だから、自分たちは登る。他の人がやらないことをしたいから。高坂さんは高校1年生で、そういう子どもじみたようなところもある。お祭りの会場では他の登場人物たちのドラマがいくつも動いていて、高坂さんとわたしたちの主人公だけがそこから切り離された場所にいる。特別になりたいと高坂さんは言う。特別な存在になりたい。

山道を登りながら、わたしはいろいろなことを考える。前回はどんなふうだったかと思い出す。すれ違う人から「こんにちは」と声を掛けられて、慌てて会釈をする。小さな子どもを背負った夫婦を追い越す。記念植樹が見えて、それを植えた人たちが今なにをしているだろうと思う。足が疲れてくる。息が上がってくる。次第になにも考えなくなる。山を登る。

山頂付近には簡素な展望台がある。眺望は美しく爽やかだ。水筒に入れてきたお茶を飲む。ここまで登ってきても、わたしにできることが増えたりはしない。わたしは無力なままで、世界に向かって少し祈る。小さな子どもが駆け出していく。あとから来た若い女性が「ここが大吉山の山頂?」と言う。

そういえば、そんな名前だった。

おみくじも大吉だった。山の名前も。この山の名前は祈りだろうか。誰かが祈った名前だろうか。わたしは山を降り始める。登ったら降りなくてはならない。今年がよい年になっていきますように。その名前にわたしはもう一度祈りをこめる。

@ffi
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