この記事は、「私の一冊 Advent Calendar 2024」に参加しています。
名前のなかった現象や概念が名付けられることで、人々がそれを見つけられるようになる。そういうことはときどきある。
身近なところでいえば「推し」がそうで、ファンや贔屓といった言葉では足りない部分も含めた概念として定着した。数年前から言われるようになった「名もなき家事」という言葉も、生活を保つためのさまざまな活動や、その活動を無意識に担うことになっている人たちに注意が向けられるきっかけになった。
「発達障害」という言葉が普及したことは、いいことだったのだろうと思う。自分自身がなんだか他の人とは違う気がするとき、あるいは家族や同僚がどうも自分の常識と合わなくてストレスが高まるとき、「これはいわゆる発達障害なのかな?」と思うことで楽になる気持ちはたくさんあっただろう。短絡的なラベリングは差別意識を助長するかもしれないし、ラベルに安心するだけでは本質的な解決にはならないかもしれない。それでも、言葉があることはより深い思考をサポートするはずだし、衝突や抑圧を避けてくれる効果もきっとある。
個人的には、LGBTQについての文脈で「SOGI」という言葉が紹介されたとき、安堵感があった。わたしはシスジェンダーのヘテロ男性だけど、女性的なジェンダー表現をすることへの指向がやや強くあって、髪を伸ばしていたり爪をときどき塗っていたりする。そういう自分のありかたを示してくれる言葉を知らなかったことは少し不安だった。安堵感を覚えたことによって、そう認識した。
一方で、言葉がうまれて、人々に発見されたことによって、それが不当に奪われてしまうこともある。
「推し活」はマーケティングの言葉となり、人々が推しのためにたくさんのお金を使うことが共通認識となって、商業化されてしまった。「コンプライアンス」や「ルッキズム」といった言葉もすっかりメタ的に扱われるネタになっている(少なくとも、いまの日本のお笑いシーンにおいては)。わかりやすい言葉は、わかりやすさを加速するために本来必要だった意味を落としてしまう。言葉になることで奪われてしまう。
「多様性」という言葉もまた奪われている。わたしたちはずっと前から多様だったのに、「いまは多様性の時代です」と宣言されてからというもの、わかりやすい「多様性」の旗のもとにそれぞれが適切に振る舞うことを強要されているようだ。多様であることは、ぜんぜんわかりやすいことではない。理解しがたい人々が当たり前にいて、他者から見ればわたしもずいぶん理解しがたい人で、その相互作用のなかでゆらゆらとしているはずなのに。
言葉がうまれたことで、その概念や現象や状況があまりに簡略化されたかたちで理解されてしまうのであれば、その言葉はない方がよかったのだろうか。その考え方はまた少し極端かもしれない。わたしたちには作品がある。その言葉がうまれる以前を描いた作品を味わうことができる。
2024年上半期におおきな話題となったテレビドラマ『虎に翼』は、「女性の社会進出」という言葉も、アロマンティックやアセクシャルといった言葉も、シスターフッドという言葉もまだ謳われていない時代を描いた。現代の鋭い感性が持ち込まれて描かれたドラマは、簡略化された言葉では説明されずにキャラクターたちの人生として表現されるからこそ、わたしたちの心により深く届いた。
マンガ『君と宇宙を歩くために』はなんらかの発達障害を抱える人物たちが主人公になっている。この作品の舞台は20年ほど前の日本だ。作者は1巻のあとがきで「テーマの一部を言語化せずにストーリーを進める部分があります」「平成のあの頃、どんな風に世界が見えていたでしょうか」と書いている。現代であれば、おそらく主人公たちはもう少し違ったアプローチを周囲から受けているだろう(それがよいことかどうかはわからないけれど)。発達障害という言葉や概念があまり知られていない時代として描かれているから、この作品のなかで起こるドラマを受け取れるという部分はおおいにある。
『春あかね高校定時制夜間部』は、ある高校の夜間部に通う学生たちを主人公にしたマンガだ。リンク先で第1話から第3話までは読める。残念ながら、全9話で連載が終了し、単巻でコミックスが発売されている。
主人公たちの日常に起こるできごとを中心に、コメディを交えつつマンガが展開する。4コマ漫画ではないがコマ割りは控えめで、キャラクターたちは可愛らしいともいえるし不安になるような絵柄ともいえる。個性的なメインキャラクターが何人かいて、それぞれに関わり合う短めのエピソードを重ねていく。
この作品の舞台も、おそらく2000年頃だ(時代設定の明記はないはずだが、「子どもの頃にパチンコ屋に連れて行かれたエピソード」や登場する携帯電話のデザインから推測される)。登場人物たちはそれぞれ、この時代ではまだ十分に普及していない言葉で名付けうる属性をもって生きている。あるキャラクターの性的指向は、当時であれば極めて単純なラベルが貼られていただろう。別のキャラクターは、現代ならば「たぶんヤングケアラーなんだろうな」と理解されるかもしれない。その言葉があってもなくても、そこで起きていること/置かれている状況は変わらないのだけど。
春あかね高校定時制夜間部に通う学生たちは、みんなそれぞれに生きづらさを抱えている。十分な余裕をもって生きられている登場人物はいない。だからこそ、相互に無理のないケアが生じているように思える。自分の境遇を疎ましく思う人もいる。もっと普通に生きられたらよかったのにと思う。そうは思っていないらしい人もいる。いろいろな人がいて、互いに気遣ったり気遣えなかったりしている。わたしがこのマンガを読んでいて感じる心地よさは、たぶんそういうところにある。
生きづらさを扱う作品のなかには、キャラクターの「かわいそう」な境遇を「感動」の素材にしてしまうものもある(先述の『君と宇宙を歩くために』についても、ややそうした「お涙頂戴」的なトーンが感じられもする)。
一方で、強引な感動や教育的なトーンを排して描かれた作品もある。たとえば、女子大学生どうしの恋愛を描いた『付き合ってあげてもいいかな』の作者は、インタビューのなかで「性的少数者は、誰かの教材として生きているわけじゃない」と語る。
誰もが普通に生きていて、普通に生きるなかでうまくいかないことがあって、生きづらかったりそうでもなかったりしている。それは作品のなかのキャラクターも同じだ。前掲の言葉を借りれば、「生きづらいキャラクターは、誰かに感動を与えるために存在しているわけじゃない」。
春あかね高校定時制夜間部に通う学生たちに、すごく特別なことは起こらない。彼ら彼女らの多くは少なからず生きづらそうだけれど、その日常を普通に生きている。だから、わたしはこのマンガが好きなんだろう。
ここには多様性が、多様性のままで存在している。「多様性」という言葉でラベリングされる前の、奪われてしまう前の多様さが描かれている。
あるいは、こんな読み方は独善的だろうか? いや、身勝手かもしれないけれど、こんな読み方も包含してくれるはずだとわたしは思う。
残念ながら1巻だけで完結してしまったけれど、だからこそ、どこまでも広がる世界をもちうることになったマンガ。わたしの大切な一冊だ。