徳島県鳴門市にある大塚国際美術館に行ってきた。とても楽しかった。
大塚国際美術館はかなり変わったタイプの美術館で、陶板による複製画だけが大量に展示されている。本物というかオリジナルの作品はひとつもない。展示作品数はおよそ1,000点。原画と同じサイズで再現され、古代から現代にいたる西洋美術史の流れがわかるような展示設計になっている。
入場してすぐの展示は、システィーナ礼拝堂の天井画と壁画。体育館くらいのサイズの大きな空間の天井と壁面に、ミケランジェロが何年も掛けて描いた宗教画が再現されている。オリジナルはバチカン市国にある。


この空間は、2018年12月のNHK「紅白歌合戦」で米津玄師がパフォーマンスした場所としても知られる。わたしがこの美術館に関心を持ったのも紅白歌合戦を観たのがきっかけだ。
大塚国際美術館のことを知った人のおそらくほとんどが、「複製画を見ておもしろいの?」と思うのではないか。わたしもそう思っていた。以前に徳島県内を旅行したとき感じた「大塚製薬の企業城下町」という印象も重なって、大企業が道楽で運営しているような施設なのだろうと思いこんでいたところもある。
ただ、SNSで来訪客や徳島出身の方の声などを見るうちに、案外おもしろい場所なのかもしれないと思い始めていた。大阪に住むようになって気軽に行ける距離になり、はじめて訪れた。
展示方針は明確で、古代から現代にいたるまでとにかく西洋美術の作品を扱っている。西洋美術から外れる作品はまったくない。日本画もないし、日本人作家の作品もない。(ただし、米津玄師の「Lemon」のCDジャケットが特別展示されている。)

西洋美術の歴史はキリスト教の歴史だから、展示作品のかなりの部分を宗教画が占めている。宗教画には代表的なモチーフがいくつかあり、多くの画家たちがそうしたモチーフを描き続けてきた。そうした多くの作品がたくさん集まっている。なにしろ複製画なので、たくさん集められるのだ。
聖母マリアが天使に妊娠を告げられる「受胎告知」の絵が、ひとつの空間に10数点も展示されていた。こんなものは他の場所ではとても見られないだろう。美術の専門家でも、キリスト教の専門家でも、この枚数の「受胎告知」を一度に見たことなどないのではなかろうか。

膨大な展示作品のなかで、イエスは何度も降誕し、最後の晩餐を囲み、受難と復活を繰り返す。キリスト教も輪廻するのかなどと思う。何十年も何百年も伝えられてきた歴史のことを思う。すごいな。キリスト教、すごすぎないか。これをずっと伝えてきたんだからな。
同じようなモチーフが同じような技法で描かれ続けてきた状況をたっぷりと見たうえでカラヴァッジョ「聖マタイの召命」を見ると、時代が変わったことがはっきりとわかる。ルネサンスからバロックへ。

有名な絵には、強い力がある。複製印刷されたタイルであっても。

美術館のなかは広く、全部歩くと4kmあるそうだ。わたしたちは朝9時40分頃に入場して、閉館時刻の17時ギリギリまで館内にいた。途中で昼食に海鮮丼を食べたり、夕方にはカフェでケーキを食べたり、屋上庭園に出て海を眺めたりもした。鳴門の渦潮を見に行けたらいいなと考えていたけれど、そんな余裕はなかった。ずっと美術館にいて、ずっとおもしろかった。

「複製画を見ておもしろいの?」という問いの回答は「おもしろいものと、おもしろくないものがある」だと思う。
古代の見たことのないような(見ることのできないような)作品はおもしろかったし、中世からルネサンスにかけての宗教画もよかった。近代に入っても、ゴッホやルノワールやマネやドガあたりまではおもしろかった。こうした絵画はふつうは気軽に見られない。気合いの入った美術展が開催されたとしても、一度に見られるのは数点ていどだ。作品保護のために照明は薄暗くて、立入禁止ラインから遠く離れて、周りの鑑賞者の迷惑にならないようにそそくさと見るしかない。でもここにあるのは陶板の複製画だから気軽に見られる。
おもしろくないなと感じ始めたのは、現代に近づいてきたあたりだった。ジャクソン・ポロックの大きな絵の複製を見て、「これをこの形式で見ることってどういう意味があるんだ?」と思った。アンディ・ウォーホルもあったし、ピート・モンドリアンもあった。うーん、なんていうか、それは違うじゃん?と思う。うまく言えないけれど、なにか決定的に違う感じがした。画像じゃん、と思った。画像だ。陶板に印刷され焼成された画像。液晶ディスプレイに表示された画像。
急に魔法が解けてしまったようで不思議だった。なぜだろう。近現代の絵画作品は、上野や六本木や清澄白河の美術館でオリジナルを何度か見たことがある。いまの時代を生きているアーティストの作品も何度か見たことがある。そうした記憶と比較しているのかもしれない。あるいは、現代絵画の「見方」が提示されていない展示だったといえるかもしれない。宗教画や近代作品の展示と違って、現代絵画ではあまり親切なキュレーションが提供されていないように感じられた。現代の作品はなおさら「見方」が大切で、それがわからないとおもしろがりにくい。
わたしたちは絵を見るとき何を見ているのか? 美術論も美学も批評もあまり知らないわたしには難しい問いだけど、たぶん学問的には回答はあるんだろう。その答えは答えとして知るとして、今回わたしが感じた「急に”画像”だと思って冷めてしまった感じ」はとても興味深い現象だった。

帰りの高速バスまですこしだけ時間があったので、海の見える場所まで歩いた。気持ちのよい風が吹いていた。