「僕」や「俺」は男性のみが使うとされている一人称だ。まれに女性でもこれらを使う人がいるが、かなり限定的だ。
わたしは男性として生きてきて、中学生くらいまでは自分のことを「僕」と言っていた。中学だったか高校だったかは記憶がないが、おそらく15歳前後から「あたし」を使うようになる。意図的に「ぼく」でも「オレ」でもない人称を使っていることを伝える意味でも、「わたし」ではなく「あたし」と聞こえるような発音をしていた。どういうこだわりだったのか、いまではもうわからない。大学生になるころには、「あたし」へのこだわりは消えて、単に「わたし」と言い始める。それから20年ほど、わたしはずっと「わたし」だ。書くときにはひらがな表記にしている(ビジネスのメールなどでは漢字にするけれど)。「私」という字は「公/私」の対比や「私的(プライベート)」の意味合いがにじんできて、あまりしっくりこない。主張の少ない透明に近い一人称表記が「わたし」だと感じているけれど、何年もこれなので慣れているだけだとも言える。
言葉について書かれた、人文書とエッセイのあいだくらいの質感の本を読んでいて、その著者が「ぼく」を一人称として書いていることが急にすごく嫌なものだと感じてしまって続きを読めなくなった。なんでこの著者は、言葉を大切に使おうという趣旨の文章を書くときの一人称に「ぼく」を選んだのだろう。「私」ではなく。「ぼく」は、この文章には気持ち悪い感じがする。わたしの感じ方の偏りだろうか。
気になって、手元にあった本をいくつか確認する。
千野帽子『物語は人生を救うのか』 → 僕
松村圭一郎『くらしのアナキズム』 → 私/ぼくら
千葉雅也『現代思想入門』 → 僕
ドミニク・チェン『未来をつくる言葉』 → わたし
東畑開人『居るのはつらいよ』 → 僕
朱喜哲『〈公正〉を乗りこなす』 → わたし
ふと、男性はずるいなと思う。選ぶことができる。「僕」を選んだり「私」を選んだりすることができる。女性の書き手には一人称を選ぶことができない。それは公平だろうか。そんなことは些末な話だろうか。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の「まえがき」と「あとがき」の一人称は「俺」で、圧倒的な印象を読み手に与える。國分さんがこんなに鮮明に使ってしまったから同じワザはもう誰も使えないだろうけど、こんなことができるのは男性だからだということはできる。ずるいかもしれない。
どんな言葉を選ぶのかで語り方は変わってくる。「僕」と「私」を選べることと、選ぶことなく「私」を使うことの違いはどのくらいあるのだろう。