速くないインターネット

ffi
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あたらしいウェブサービスを見つけると、すぐに試してみたくなる。

ちょうど3か月前に、「生活史、分人、速くないインターネット」という短い文章を書いた。Blueskyをはじめて間もない時期だ。わたしがSNSやインターネットでどんなことに楽しさを見出しているのかを考えながら書いた。書いてからほんの3か月しかたっていないけれど、そのころBlueskyに感じていた楽しさの少なくない部分はもう、失われたり目立たなくなったりしているなあと思う。悪くなったというわけではない。場の「空気」のようなものは移り変わる。それだけのことだ。

この「しずかなインターネット」というウェブサービスは、「速くないインターネット」を実装しているのかもしれないなと感じている。自分が書いたものへの反応を知ることも、他の人がなにかを書いたと知ることも、よほど積極的に取りに行こうとしなければ、すぐには届かない設計になっているようだ。すぐには届かないけれど、まったく届かないわけでもない。週に一度、ひかえめなニュースレターがメールで届くという。つまり「遅い」のだ。

3か月前に書いた文章のなかで、わたしはこう書いている。

わたしたちは、情報が即座に入手できることに慣れすぎてしまって、すべてが速くあるべきだと感じている。知人がなにかの話題について言及していれば、起きた事件を速やかに把握しなければいけないと思ってしまう。(…)慌てて知らなくてもいいし、慌てて書かなくてもいい。

SNSに集まる人が増えてくれば、情報量が増えていき、情報の届くスピードも速くなっていく。速くなってきている。慌ててしまう。慌てる必要などないのに。

1か月ほど前からニュースレターを始めた。「生活と、そのほかのこと」というタイトルで毎週1度配信している。まいにちの食事やちょっとした日記を編集して整えている。ごくわずかな人のメールボックスに、わたしからのメールが届く。その人たちがどのくらい丁寧に読んでいるのかはわからない。それはいつどこに書いたものであっても同じだ。SNSに投稿する写真にはいくつも「いいね」がつくけれど、どのくらいの深さで届いているのかはわからない。わからないけれど、ニュースレターにはSNSとは違った時間が流れていて、その時間の流れ方のおかげで、書くときも読むときも普段よりも深く考えられているような気がしている。

わたしたちのインターネットは速くなりすぎてしまって、涙もかなしみも追いつけないでいる。だからといって、自分で遅くなろうとするのは本能に反するから簡単ではない。それなら、仕組みの力を借りることで「速くなさ」を手に入れられないだろうか。

この文章はエディタの「ムード」機能を利用しつつ書いた。雨音や波の音や鳥の声を聞きながら書いている。公開された文章の背景は真っ白な画面なのだろうけれど、エディタ上ではぼんやりと温かみのある背景画像が見えている。このエディタを使って書いている限りは、そう簡単には速くなることはできないだろう。

@ffi
コーヒー、生活、インターネット