Xもやめればいいのに、と思う

ffi
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公開:2024/8/7

ウェブに書かないほうがいい話題がふたつある。ひとつはウェブサービスについての話題で、もうひとつは悪口の類だ。このあとの文章はその両方を重ねたものにあたる。


Blueskyのアカウントを取得してから、1年と2週間が経った。わたしのXのアカウントは昨年8月以降はほとんど更新しなくなり、12月には非公開設定にした。今はもう本当に更新していない。ここやnoteに文章を書いたときに投稿することもあったが、もういいだろう(また小説が書けたときは告知するかもしれない。そのくらいだ)。

多くの人が「Xをやめられない」と言う。やめればいいのに、と思う。

「やめられない」と言う人の多くは「やめたいけど、やめられない」のだろう。気持ちはわかる。気持ちはわかるが、やめたいなら、やめたほうがいい。

「やめられない」と思っていない人も、また大勢いるだろう。Xの運営会社のトップがどんな人物であっても気にならない人や、公共性が高いはずのウェブサービスとしては公正と言いがたい運用がなされていることや、嘘や差別が制限なく流通していることなどを特に問題だと感じない人は、少なくはないはずだ。

わたしは、そういうことを気にしない人たちを、少しも悪いとは思わない。わたしだって、たとえば世界各地で起きている戦争について十分に考えたり行動したりしていない。わたし自身の生活から遠くに感じているし、それらの問題を適切な距離で考えることを難しく感じる。もっと自分の近くで起きている貧困や差別の問題についても、ほとんど考えたり行動したりしていない。わたしは結局のところ、そういう人間だ。同じように(と言うべきかどうかわからないが)、Xに滞在することに疑問をもたない人がいることは想像できるし、そのことを責めたりするつもりは一切ない。

ただ、「Xをやめたいけど、やめられない」ということを聞くと、「やめればいいのに」と思う。もちろん、いろいろと事情はあるのだろう。仕事のために使い続けなければならない人もいるだろう。


どなたが言っていたのだったか記憶がはっきりしないのだけど、わたしがX(当時はまだTwitterだった)をやめるキッカケになった言葉がある。

「noteは使うのをやめられても、Twitterは代わりがない」

Xを使い続けることに嫌気が差している人たちのなかには、一時期からnote社のサービスを避けている人もいるのではないだろうか。note社がかつて運営していたウェブメディア「cakes」において倫理的な問題のある記事が連載されていたときなどに、cakesとnoteに対する不買運動のような動きが起こっていた。あれは何年くらい前のことだっただろう。

当時のわたしは、仕事としてnoteを使ったコーポレートブログの運用に携わっていた。個人としてはnote社のサービスを積極的に使いたいとは思えなかったが、仕事の上では使い続けた。クライアント企業に対して、「いまはプラットフォームが炎上したり批判を浴びたりしているけれど、ユーザーのほとんどは気にしていない様子だし、回遊性の高さなどを考えれば引き続きnoteを使ったほうがよいでしょう」などと話したこともある。

cakesやnoteに倫理的な問題があったことは、それはたしかだと思う。サービスの利用をやめるほどだったかどうかは、各自が考えることだ。わたしは使っている。

Xはどうか。使うことに問題があるかどうかは、やはり各自が考えることだ。わたしはもう使っていない。以前は代わりがなかった。いまはBlueskyがある。

先述の言葉を拝借するなら、「noteをやめたなら、Xもやめればいいのに」とわたしは思う。わたしはこの発想を経て、Xの利用をやめた。

@ffi
コーヒー、生活、インターネット