『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』|必要とする人たちへ、この映画が届くように

ffi
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以下の文章は、2023年4月にわたしが書いた文章に加筆修正をしたものです。

この映画が、届くべき人に届きますように。

そう願うと同時に気付く。届くべき人とは、わたしのことだった。この映画はわたしの映画だった。たぶん、そうだと思う。

だからわたしは、この文章を書かなくてはならない。

映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』

とても繊細な映画だ。繊細で壊れやすいものを、繊細で壊れやすいもののまま映画にしたような作品。そんなにわかりやすくないし、ぼんやりとは観ていられない。相応の集中力と真摯さがなければ鑑賞できないかもしれない。観る人を選ぶというか、観る態度を問われる作品といえるかもしれない。

映画の序盤、初対面の七森と麦戸が互いに自己紹介しあう場面がある。大学の入学式とオリエンテーションを終えたばかりの2人。どちらも人と話すのは得意ではなさそうで、言葉遣いのチューニングを不器用に合わせながら距離を近づけていく様子は、微笑ましいというよりも衝突しやしないかと心配にさせる。映画のおもな舞台となる「ぬいぐるみサークル」に集まっている人たちが交わす会話も、なんだかずっと危うい。

危うい会話を、会話になっていないような会話を、観客は聞く。彼ら彼女らの声は決して大きくない。大きな声で上手に話せるわけではない人たちにも声はある。その声と向き合うことを、この映画は迫ってくる。

映画は、高校生のころの七森が女子生徒から告白されるシーンで始まる。七森は恋愛がわからないと言う。2023年の勘のいい観客は、ここで「アロマンティックなのかな」と思う。アロマンティックやアセクシャルという言葉は次第に知られるようになっているけれど、当たり前の概念には、まだなっていない。彼はまだ、自分の性的指向を示す言葉と出会っていない。

七森がアロマンティックのようにみえることとは別個のこととして、彼はあまり強い人間ではない。社会の理不尽さや不合理さによって簡単に傷付いてしまう。弱いことは悪いことではない。けれど、生きやすくはない。

「ぬいぐるみサークル」に集まる人たちは、みんな多かれ少なかれ生きやすくなさを抱えていて、けれど、だからといって社会とまったくつながっていないわけでもない。恋愛をしていたり、別のコミュニティに友人がいたりもする。だから尚更うまくいかないことも起こる。あるときはうまくいき、あるときはうまくいかない。生きることは大体においてそういうものであって、彼ら彼女らも、わたしも、あなたたちも、生きづらいなと思いながらなんとか生き延びている。

ぬいぐるみと喋るわたしたちは、生きづらいことが他の人たちよりもたぶん少し多いらしい。他の人たちがあまり気に留めていない不合理に気付いて不愉快になったり傷ついたりする。

自分の感じたことを周りの誰かと話せたらいいのだけれど、ネガティブな話題を誰かと共有することで、その話を聞かされた他者が傷ついてしまうことを恐れて話せなくなる。だから、一方的に声をかけられるぬいぐるみと話す。

でも。

わたしたちのあいだにある問題は、わたしが黙って傷ついていても解決しないかもしれない。ぬいぐるみにだけ話していても、世界は変わることはないかもしれない。本当はわたしたちは世界を変えてしまいたいのに。

七森は恋愛のことはわからないけれど、女性が女性であるという理由から男性たちに迫害されたりしていることを許すことができない。女性の友人がセクハラを受ければ自分のことのように怒りを感じるし、そうした状況や構造を変えようとせずに受容することを差別への消極的な加担だと捉えてもいる。

そして、けれど、七森は自分が男性であり、男性であるという事実によって女性よりも社会的に優位な立場になりうることについて悩み、傷つきさえする。

その悩みや傷つきは、むしろ傲慢でもある。それでも彼は真摯に悩んでいる。

この映画がわたしの映画だと感じるのは、わたしも傲慢な七森だからだ。

わたしは、生きづらく、傷つきやすく、だからこそこの社会を少しでも生きやすく安全なものにしたいと願っている。それでいて、自分が偶然獲得しているさまざまな要件を受容していて、そのことの傲慢さに戸惑い、これをどう扱ったらいいのか困っている。この数年ほど、ずっと。

わたしは七森よりも20歳くらい年上だけど、彼の感じているものの一部は間違いなくわたしの問題として存在している。

この映画の原作は数年前に発表された同名の小説で、もっと早く小説を読んでいれば、もしかしたらわたしの考えはもっと先へ進めていたのかもしれないと思う。それでも、いま出会えてよかったと思う。

『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』は、繊細な映画だ。わかりやすいカタルシスがあるわけではなく、はっきりとした希望が示されるわけでもない。

わたしたちは全然大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃないままだけど、いろいろなことが重なっていって、もしかしたら少しずつ大丈夫になっていくのかもしれない。この映画がそのひとつの部分になるという人は、きっと少なからずいるのだと思う。届いてほしいと思う。

@ffi
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