お菓子と漬物とクィア・リーディング

ffi
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公開:2024/8/5

『虎に翼』88話には印象的なシーンがあった。寅子が夕飯を「お菓子で済ませよう」と提案し、食卓にクッキーやカステラが並ぶ。そこには漬物の皿も載っている。どうして漬物?と聞く優未に、甘いものだけじゃなくて、しょっぱいものも食べたいでしょうと寅子が言う。

ふたり暮らしをしている母娘。寅子は仕事が忙しく、優未はまだ9歳くらいか。日々の夕食を用意し続けるには、どちらも不足がある。共同体の力を借りるのも職業柄すこし難しい。家事を手伝ってくれる知人に全面的に頼むのもはばかられる。そうはいっても食事は大切だ。母も子も無理のないような持続可能な食生活をしてほしい。そう感じていた視聴者は、たぶん、決して少なくはなかったんじゃないだろうか。

もちろん、ドラマの中ではもっといろいろな要素が展開されている。寅子と優未の関係性の修復、涼子とたまのシスターフッド、香子や小野もまじえた朝鮮人差別の問題など、いくつも要素がある。そのすべてに十分に注目し続けることはエネルギーが必要で、わたしたちは自分の関心の高い部分にあるていど集中する。

ところで、『虎に翼』は、テレビ放送の翌週にはKindleで脚本が販売されている。脚本のテキストと、放送された映像は、まったく一致するわけではない。脚本からカットされているシーンもあるし、撮影現場で追加されたセリフなどもあるという。

SNSで話題になっているのを見かけたのは、登場人物たちの性的指向にかかわるセリフがカットされたことについてだった。脚本に書かれたセリフがそのまま放送にも使われていれば、このキャラクターがアロマンティック・アセクシュアルであることが明確になった(のに、その機会が奪われてしまったのは残念だ)という見解を見て、なるほどと思う。

そういう考え方はもちろんあるだろう。しかし、その姿勢はちょっとクィア・リーディングを押しすぎなのではないか、とも感じる。そうした読み方が可能な作品があまりにも少なすぎるということは理解しているけれど、だからといって押し出しすぎては食傷してしまう――と考えるのは、穂高や桂場のような強い側にいる者の勝手な意見なんだろうか。そうなのかもしれない。だから、言及はせずにいた。感想の感じ方について争いたいわけではない。

夕飯にお菓子と漬物を食べる寅子たちを観て、「わたしはこれを観たかったんだ」と思った。寅子も優未も、そしてわたしたち視聴者も、食事をもっと気軽なものとして捉えたらいい。好きなように食べればいい。はるの田舎の、砂糖が多めの味付けを継承してもいいし、継承しなくてもいい。お菓子の夕飯でいいし、そこに漬物があってもいい。気軽に食べればいい。

「わたしはこれが観たかったんだな」と思うのと同時に、登場人物たちの性のありかたが多様であってほしいと願いながら視聴している人の切実さを、あらためて認識したように思った。クィアな人たちが適切に登場する作品はまだとても少なく、クィア・リーディングが可能な作品も少ない。

作品における食事との向き合い方のバリエーションもまた、多くはない。映像作品において、食事のシーンはかなり意識されているように思う。『虎に翼』でも重要なモチーフとして「分け合って食べる」場面が繰り返される。たとえば『アンナチュラル』では、取り扱われる題材のシリアスさとの釣り合いが取れないような食事シーンがよく描かれていた。『エルピス』でも主人公は拒食から始まり、最終話のラストでは戦果を上げた同胞たちが牛丼を食べる。

食事のシーンは示唆的だ。セリフはなくてもいろいろな情報を伝える。

でも、だからこそ、わたしはもっと気軽なものとしても食事をしてみせてほしかったのだと思う。コンビニ弁当を食べてばかりだからって、気持ちが荒んでいるとは限らない。インスタントラーメンを食べることに意味がなくたっていい。そういうことを、たぶんわたしは思っていたのだった。

『虎に翼』88話の食事シーンは、母娘のささいな共犯関係をつくって溝を埋める意図があるもので、「気軽な」シーンではまったくないだろう。そんな視点はまだほとんどないのだから、仕方ない。と、そう気づいたときに、わたしは上記のような連想をしたのだった。

わたしたちは、作品に触れるとき、自分の関心に沿った見方をする。それはたぶん、誰でもそうなのだ。ときには、自分と似たような関心をもつ人が少ないこともある。関心に沿うような作品となかなか出会えないこともある。それらのことは、クィアについて考えるときにのみ発現するわけではない。常にそれはある。そういうことに、いまあらためて気がついたのだと書いておきたかった。

@ffi
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