テレビでスポーツ中継を眺めているとときどき、観客席にいる一般人が大写しになることがある。プレイしているスポーツ選手たちの関係者のこともあるけれど、よく見かけるのは偶然選ばれた一般人のようだ。会場でも同じ映像が流れているのか、映し出されて数秒後には驚いたり喜んだりしながらカメラの位置を探す様子が見られがちだ。わたしは自分からテレビでスポーツ中継を観ることがほとんどないので正確なところはわからないけれど、プロ野球やプロサッカーの試合中継でも見かけるし、高校野球の中継にもよくあるように思う。今回のオリンピックでも、スケートボードの予選のときに見たような記憶がある。
あの演出が好きではない。カメラと配信という一方的な力をもった立場による暴力的な振る舞いだとさえ思う。スポーツの試合を見に来ている客は、見られたいと思って来ているわけではない。表舞台に出る可能性があると思ってはいない。それなのに、無理やり引きずり出されて、そのイベントを彩る演出のひとつとして無断で扱われる。暴力的だと思う。少なくともわたしはそう思う。
音楽のライブ会場に来ている観客たちも、しばしばカメラで撮影されている。音楽ライブの場合には、観客が現地のスクリーンに大写しになることはまずない。ただ、現地のスクリーンには映らなくても、テレビ中継だったり、YouTubeなどで記録映像として配信されるときなどは、観客の顔がアップで映されていることがある。そのとき映っているのはたいてい、きれいな女性だ。ライブパフォーマンスに感動して涙を流している若い女性だ。
アーティストの演奏や歌唱のあいだにそういう映像が挟まるたびに、嫌だなと思う。会場全体を大きく舐めるように映されているのは気にならない。特定のひとりの観客だけに集中しているような画面が嫌だなと思う。
理由はいくつかある。そもそもその人は他人だ。一緒にライブに来た友達ではない。ライブ中ずっと隣の席にいたわけでもない(不思議なもので、1時間や2時間おなじ空間と時間を共有していると、それはもう完全な他人という感じはしない。ライブ中の反応を横目で感じているうちにその人の背景や情熱がなんとなく伝わる気がして、もしその人が終盤のバラードで泣き崩れていたりしたらわたしもきっと強く泣くだろう)。いきなり知らない人の泣き顔を見ても、困るのだ。
見方を提示されたくない、という気持ちも強い。「この歌声に感動して泣いている人もいますね。あなたもどうですか」と言われているような気がして気持ちが悪い。好きに感じさせてほしい。だいたい、現地でライブを見ることと編集された映像を観ることでは意味がまるで違う。せめてもの擬似体験の手助けにというなら余計なお世話すぎる演出だ。どうせ違う体験なのだから、知らない人の見方をモデルにしないでほしいと思う。
そしてやはり気になるのは、そこでカメラが捉えている観客が「きれいな女性」ということだ。男性客がまったく映らないとは言わない。きれいじゃないオタク全開の男性が映ることもあるかもしれない。あるいは、わたしが観るタイプのライブ映像が偏っているだけなのかもしれない。そういうことなら、それでもいいのだけれど。もし、若い女性客がちょうどよく泣いている様子を狙っているのだとすれば、そんなことは速やかにやめるべきだとは思う。
アーティストの演奏に感動している女性客の涙がインサートされた映像を観るとき、わたしはいつも、ちょっと嫌だなと思う。そこにわたしはいない。音楽を聴くのが普通に好きで、そのアーティストのことも普通にいいなと思っていて、とはいえ特別な思い入れがあるわけでもないような中年男性であるわたしは、その場所にはいない。そうした映像を観るたびに、その映像や音楽がわたしのほうを向いていないような気持ちが少しする。少し寂しいのかもしれない。