作品の門戸は広く、創作は人間の普段の営みからたくさん生まれている

ficas
·

YouTubeでいろんなアーティストの音楽を聞いていた。普段の泣くことはほぼないのだが、いくつかの映像と音楽を聞いて、すっと右目から涙がこぼれてしまった。ほんのたまに、こういうことに出くわしてしまう。心を動かされたということだ。

人の感情に働きかけるコンテンツに出会えたときに、ふと思う。こんな作品を自分が手掛けることはない、と。作品という言葉に遭遇するたびに、自分には創作なんてできっこないという一種のあきらめのような感情が沸き起こってしまう。

作品とは何か。作品という言葉はときたま使うけど、定義を知りたくなったので、辞書を引いてみた。

作品。感情や心境の表出、思想や主張の表明など、何らかの意図や目的があって制作したもの。(新明解国語辞典第8版)

そうか、作品とはこういう定義なのか。とすると、しずかなインターネットに書いているこの文書も、実は作品といってしまってもいいものかもしれない。

ここで書いている文書は、自分の感情や心境である。文書を書く意図は、その時感じたことや思い浮かんだことをそのまま流さずに、少しだけ考えを進めてみたいから。目的はメタ認知。結果として、誰かのための文書になるといい。

自己満足でもいい。ここに書いた文書は、作品とみなしたい。すると、これまでとは違ったもののとらえかたができる。作品に取り組むことは、自分が思っていた以上に門戸が広い活動ではないか。

創作する機会は、多くの人にとってすぐそばに存在している。芸術だけが作品の受け皿ではない。普段の人間の営みから、作品はたくさん生まれている。そう思うだけで、自分には作品なんて作れないという気持ちは、少し晴れた。

もし、この文書に心を動かされたり、感動したりする人がもし出てきたら、とてもうれしい。この文書を作品と自信を持って呼べるようになるまで、創作を続けてみるのもよさそうだ。