オカムラ君がアムステルダムに行ってしまうらしい。オカムラ君に熱を上げていたアサミから聞いた。アサミは、朝練のあとチームメイト数名に囲まれ、ぐすぐすと泣いているようだった。
中学校は、関東平野のどん詰まりの丘の上にあった。この中学校には二つの小学校から生徒が集まる。私とアサミは、中学の隣に建つ小学校の出身だ。この小学校は地域で一番古いため児童数が多く、近隣に小中学校が増設されて現在に至る。その関係で小学校と中学校の学区が入り組んでいて、卒業生全員が同じ中学に進むことができない。クラスの3分の1ほどが、隣の学区の中学に進むのだ。だから、仲が良かった友達や少し気になっていた人と、住んでいるエリアが違うという理由で離されてしまう経験を、私たちの多くはしていた。
一方、オカムラ君たちの小学校は駅から離れたエリアにあった。そこからは生徒がまるまる、この中学に来る。少しだけ街にある中学に進むことになるのだが、彼らは全員で新しい人間関係に臨んでいる。この進学により仲良しグループの数人を失った私は、小学時代のほとんど全てを共有している彼らの一丸となった感じ、あまり変わらずに済んでいる感じ、これまでの全てをそのままこの場に持ち込めている感じに、少し苛立っていた。私たちは少し削られていたから、もう完全な一つではなかった。新しい一つを作るためにスペースを空けて彼らを迎え入れたけど、逆に圧倒されているようだった。
アサミはマセ女子のグループで、私とは仲が良いわけではなかったが、オープンな性格で誰を好きだとかよく言う子だった。小学校時代の相手は隣の中学に行ってしまったのかもしれない。アサミに限らずそういうことはチラホラとあったが、多くもなかった。アサミが中学に入って部活で一緒になったオカムラ君を好きだと言い出すのに、それほど時間は掛からなかった。
オカムラ君の小学校にはミニバスのチームがあって、女子も男子も、バスケ上手な人が多い。バスケ部員はこちらの小学校の卒業生が多いのに、ミニバス経験者は数少ないが実力が上で、すぐに中心的存在になる。1年の頃から先輩との練習に混じることもできたし、準レギュラーになる人もいた。先輩のレギュラー陣はほとんどミニバス経験者で、オカムラ君もガードのレギュラー候補だった。私は小学校時代に気になっていたカケイ君がバスケ部に入ったのもあり、つられてバスケ部に入った。カケイ君は小学校でも昼休みにバスケをしていたが、やはりミニバス出身者と比べると雲泥の差で、いつもコートの外で基礎練をしていた。
中学に進む前に、「あっちの小学校では性教育が進んでいるらしい」という噂を聞いた。意味がよくわからないが、つまり「奴らはエロい」ということを言いたいようだった。早くから男女を意識していて大人びている、ということか。確かに向こうの小学校出身者にはスカした男子が複数いて、スカし男のグループを作っている。オカムラ君は、その一角であった。
正直にいうと、私にはオカムラ君の何がいいのか、まるでわからなかった。というのも、同じ小学校にミヤケというモテ男子がいたのだが、そいつのことがまず持って大嫌いだったのだ。そしてオカムラ君は、キャラも風貌も、ミヤケに似ていた。スポーツができて、少しガッチリした体格、長めの髪に甘いマスク、と言ったところだ。そういえばアサミって、4年生のときミヤケのこと好きって言ってた気がする。
私がミヤケを気に入らなかったのは、授業中にうるさかったのもあるが、先生にも女子にも好かれ、殿様のようだったからである。いかにもモテそうで実際モテる、クラスの中心人物は嫌いだ。私はカケイ君のように、静かでクールな、知的でスラッとした秀才が好きなのだ。だから、ミヤケにもオカムラ君にもスカし男グループにも興味がなかった。明らかにモテを目指し女子の目を意識している中学生男子に興味はない。
アサミは泣いたが、私はワクワクが止まらなかった。いつもはキャアキャア騒ぐアサミを白けた目で見ていたが、この時ばかりは根掘り葉掘り聞きたくなる衝動に襲われた。オカムラ君が何故アムステルダムに行くのか、アムステルダムで生活するとはどういうことなのか。英語は通じるのか?中学生でアムステルダムに行ったら、学校はどうなるんだろう。高校はどうするの?これは人生が変わるような出来事ではないか。空想が広がった。羨ましい。私もアムステルダムに行ってみたいし、そこで暮らすという人生を送ってみたい。できないにしても、その様子を、オカムラ君から聞いてみたい。アムステルダムの街を歩いてどんなだった?景色とか、そこにしかないものとか、なんでもいいから教えて欲しい。石ころでもいいから送ってもらえないか。ああ、友達だったらどんなに良かっただろう。でも無理だ、話したこともないモテ男に、アムステルダム行きが分かってから急に近づいたら、絶対に勘違いされる。そんなことはプライドが許さない。大体、オカムラ君になんのメリットもないのに、こんなお願いはできないのだ…
アサミの涙とともにオカムラ君はいつかいなくなり、私は先輩との人間関係に嫌気がさしてバスケ部を辞めた。しばらくしてアサミも辞めたようだった。私は文芸部に入り直し、匿名で絵本や詩を書いた。バスケも楽しかったが、インドア派な自分には文芸が合っていた。
そして学年が上がり、私は部長になった。部長や生徒会が集まる会合に出たとき、スカし男たちが前の席でごちゃごちゃとやっていた。スカ男たちは生徒会をやっていたのだ。ごちゃごちゃと3人ほどの男子が騒ぎあいながら、何かを覗き込んでいた。一番のスカし男のイシバシが「帰ってくるらしいよ」と言った。目をやると、エアメールの青と赤が目に入った。
アムステルダムからのエアメールだ!!!!!!!!!
見たい見たい見たい見たい!どんな?住所はどんな風に書いてあるの?アムステルダムの住所ってどんなんだろう?切手は?アムステルダムで売ってる切手ってどんななの?建物の絵とかかな?文字は?消印は!?どんな消印なの?見たいーーーーーー!!
私は彼らの手元を凝視した。少しでいいから、アムステルダムを感じたかった。知りたかった。スカ男どもの手の上にあるその封筒だけでもいいから、見せてほしい。あんたらは便箋の中身だけ読めばいいんだから、その間、少しだけでいいからその封筒を見せてもらえないか?封筒は、封筒はどこだ!?
そう思った瞬間、私の視線に気づいたイシバシが、私にチラリと目をやったあと、手に持っていた便箋を私から見えないようにサッと引っ込めた。
私は絶望した。そして叫びたかった。「私が興味があって見たいのは、断じてオカムラの手紙ではない! アムステルダムから来た、その封筒と切手なんだ!!!オカモトの手紙なんか、1ミリも気にしてないんだあああああ!」
私がそんなことを言っても誰も信じないくらいに、オカムラ君はモテ男子だった。 私はその暴力的なモテによる価値基準に絶望した。私がオカムラ君を好きだなんてありえないのに、このエロ小出身のスカ男はそれを決め付けるのか。オカムラよりアムステルダムに惹かれる私のことなんて理解しないんだ。エロ小の、一丸となった価値観の波に飲み込まれたような気分だった。女子はみんな、オカムラみたいな男のことが気になるものだ、という価値観。なんて暴力だ。最低だ。
私は何もない顔をして、前を向いた。絶望的に恥ずかしくて顔が真っ赤だった。