ああようやく第2章に入ったのだ、と胸を撫で下ろした。10歳未満のことはあまり覚えていないし、甘く痛ましい10代は一歩間違えるとボタンを押してすべてを終わりにしていた。22歳になり、安定した仕事に就いて、自分で稼いだお金で映画を観たり服を買ったりするのが当たり前になって、なりたかった人間に近づいている気がする。つまり、自立について、大人と呼ばれる近い未来について少しずつ考えられるようになったのである。それをちゃんと自覚したのは日記を書かなくなってからかもしれない。ここ2年ほど毎日かかさず紙の日記をつけていた。毎日といっても文庫サイズのノートの半ページだけで、内容もたいしたことはなかった。その日の出来事を記録したいというより、いつか読み返すために書いていたのだと思う。いつかのわたしがこれを読んで少しでも慰められますように、という祈りだった。パソコンばかり触る日々で字を書くことはいつしか特別な行為となって、紙の日記にはなるべく好きな感情について書いた。情けなくてどうしようもない感情は日記アプリに残した。自分しかわからないそんな境界線が曖昧になるときももちろんあった。苦しみを持て余していたころはひたすらにペンを握って書いた。苦しい、という単語を使わずにあらゆる言い回しで今わたしは苦しいのだということをわたし以外の人は読めないだろうぐにゃぐにゃな字で書いた。ずっと憧れていた人が恋人になったときも同じだった。しあわせなこともたくさんあったのに、この人といることに希望をおぼえたはずなのに、どうしてもひとりになりたくて仕方がない、そんな自分がさみしい、申し訳ないということばかり書いていた。ひとりでいれば気楽で自由で正気でいられる。できることなら永遠にひとりでいたい。でもこの世界で生きるかぎり完全なひとりきりでいられる場所など存在せず、無限に他者があらわれる。そしてごくまれに気の合う他者と出会い、ひとりでいるときには想像もできないような幸福が訪れたかと思えば、いくら親しくとも完全にわかりあうことなどできないのにそれでもわかりたいと願ってしまって勝手に傷つくのだった。他者はいつだって想像を越えてやってきて、ひとりでは辿りつかないようなところまでわたしをたやすく連れてゆく。その希望も絶望も既にたくさん知っているのに、同じことを何度も繰り返してはまた日記をぼろぼろにしていた。
けれど、2ヶ月ほど前からぱたりと日記を書かなくなった。日々の労働にかまけて面倒になったのもあるのだろうが、以前のように書きたい、書かないと落ち着かないと思わなくなった。おそらくただ、必要じゃなくなっただけなのだ。書くことで暴れる心を落ち着かせていたころと比べると、今はこれまでにないほどの平穏と安定があり、過去のわたしに慰められなくても大丈夫な時期に入ったのだと思う。労働でぼんやりしている時間が少なくなって、むやみに落ち込まず、仕事が上手くいくと少しずつ自信もつく。時々友人に会っては信頼している・されていると確かめてまた安心する。着実に明るい方へ向かっているとわかる。でも同時に自分が遠ざかっている気がするのはなぜだろう。正気でいられる時間が長くなるほど、わたしはわたしの孤独に鈍くなり、このまま見失ったら幼いわたしは今度こそボタンを押してしまうんじゃないだろうか。あんなにさみしいことは二度と起こらなくていいのだ、そう思ってついに決めた。わたしはひとまず10代のわたしを抱きしめて泣き止むまでこの生を続ける。つまり、当時願っても行けなかったところにひとりで行ってみせる。自由と孤独こそがわたしの枠組みであり、それらを手放さないまま大人になる。そしていつか15歳のわたしと似た涙を浮かべた他者があらわれたら、そのひとが安心して眠れる場所をつくってみたい。この生の第2章の夢、あたらしい祈り。

(第2章はじめての異国、これからどこまでも行けるのかもしれない)