「己を救え。地獄から」
タイトルはラテン語でそういう意味だ。今回のこれを書くにあたって、なんとなく合っている気がしたので採用した。ラテン語はかっこよくて好き。もうひとつ迷った格言があるのだけど、こっちのほうが意味がかっこよかったのでこっちにします。内容的には不採用にした格言のほうが相応しいかもしれないです。
過去の自分の失態を何度も反芻して自己嫌悪に苛まれるという経験は誰しもするものだと思う。(ないけどな……と思った人はそのまま健康的な精神でこれからも生きてほしいですが!)わたしは特に小学校入学から高校卒業までの12年間の間で、それに当てはまる記憶を結構持っているのだけど、ひとつ書いて整理すれば少しは楽になるかもしれないものを見つけたので、ここで処理させてほしい。処理しきれるものかどうかはまだ書き終えてみないとわからないけど。
中学1年生。まだランドセルを卒業して1年以内、こんなことを言ったら現役中学1年生から怒られそうだけど、勉強内容と服装以外に大した違いはないと思う。まだみんな子どもで、未熟で、それゆえに背伸びしたがる時期で。思春期爆走中、かっこつけたい気持もむくむく成長している、そういう人が多かったんじゃないかな。わたしもそうだったかもしれない。今のところわたしの人生のピークは中3と高3なので、自我についてはその頃の記憶が強すぎてあまりちゃんと自分がどんな人間だったかを覚えていない。とりあえず、中1の頃の話。
夏休みより前だったか、後だったか、夏だったか、秋だったか、それすらも朧げになってしまった。ただ、春はとっくのとうに過ぎていて、冬と呼ぶにはまだ暖かすぎる時期だったことは覚えている。夏服を着ていたような気もする。
いじめがあった。被害者は、わたしが当時いちばん仲良くしていた女の子(便宜上、仮の呼び名として以下Yちゃんとする)。ロッカーに入れていた英語のノートのページが破られている。数学の教科書の目次に黄色のチョークで「バカ」と大きく落書きされている。机に黒板消しが鎮座していてそこではたかれて撒かれたであろうチョークの粉が飛び散っている。物的いじめとしてはどれも漫画でありそうなものばかりだった。小学生の時分、人間関係で相当な洗礼を受けたわたしでも、こんなことって現実にあるんだ、と驚愕した。そして、「どうしよう、何でこんなこと」と青くなるYちゃんには何があっても寄り添って支えになろうと思った。まだ見ぬ犯人を想像して、怒りにも燃えた。Yちゃんはクラスの中心人物ではなかったけれど、ある局面では仕切り役になったりして、明るい子だった。彼女がいじめを受けるような心当たりは、仲良しだったわたしにもなかった。クラスは、学年も巻き込みつつ混乱に陥って、犯人は誰なのか、みんな疑心暗鬼になってギスギスした。わたしはもちろん、クラスメイトも、お互いをそういうことをする人だと思っていなかったし、思えなかった。休みがちになったYちゃんの隣で、わたしは「Yちゃんにはわたしがいるからね」と慰めて、「辛かったら無理しないで」と励ました。
しばらくして、クラスメイトの女の子2人が呼び出された。遠方から早朝に登校している子たちだった。後日、彼女たちは完全下校時間を大幅に過ぎた夜の9時くらいまで学校に拘束されていたらしいという噂を聞いた。あとから聞いたのだけど、Yちゃんの告発がきっかけだったらしい。わたしの知らないところで事件は解決に向かっているのだろう、とか、わたしはYちゃんのケアをしたほうがいいかも、とか、そう思っていた。その日からずっと、呼び出された2人はすごくピリピリしていた。2人はクラスでも大きめのグループに属していて、他のメンバーも同じようにピリピリしていた。
休みがちになっていたYちゃんがとうとう教室に来なくなってから、わたしは心配もありつつ、他の子と過ごしていた。Yちゃんのいない教室は、いるときに比べて殺伐とした空気が和らいでいた気がする。わたしは暢気に早く犯人が見つかることと、Yちゃんの心が回復することを願っていた。そんな最中だった。担任団の一人の持っている授業がその1時間だけ中止になって、腰に届くくらい長かった髪をばっさり肩上で切ったYちゃんが教壇に立ったのは。
大胆なイメチェンにも驚いたけど、それよりもまず来れるようになったんだ、よかった、と思った。けど、そんな気持ちは次のYちゃんの言葉で吹き飛んだ。
「これまでのことは、全部私のやったことです」
一瞬意味がわからなかった。声が震えていたので、わたしが聞き間違ったのかと思った。でもそうじゃないみたいだった。Yちゃんは涙をこぼしながら、呼び出しを受けた2人と、心配をかけた先生と、クラスのみんなに向けて謝罪を述べた。
それから、Yちゃんは孤立した。わたしもYちゃんが信じられなくなって、しばらく他の子と過ごした。怒りも、悲しさもあった。でも、嫌いになれなかった。だんだん、孤立した彼女を哀れに思うようになって、わたしがそばにいてあげたほうがいいんじゃないかと思った。仲が良かった者としての使命感みたいなものが湧いていた。わたしは、孤立したYちゃんの隣にもう一度並ぶことにした。今思うと、不健康で傲慢だ。でもそのときは、そうなってしまった。
わたしはYちゃんのような扱いをされることはなかったけれど、みんなの中で「あんなことがあってもYちゃんと一緒にいる変な人」という位置になった。Yちゃん以外の元から仲良しだった友だちは変わらず接してくれて、今でもずっと仲良しだ。そういう意味ではこの学校に来て本当に人に恵まれたと思う。
当のYちゃんは事件の前と後で確実に性格が変わっていた。特に、わたしへの当たりが強くなっていた。言葉に棘が増えた。わたしが嫌な思いをすると、考えればわかる(考えなくてもわかると思うけど)ことを、平気でしたし、平気で言った。わたしは確実に傷ついていたのに、離れることがどうしてかできなくて、でも本人にそれを返したり伝えたりすることもできなかった。わたしは、れを外野へ陰口として発散するという最悪の方法で、自分を守ろうとした。
わたしの後悔はこれだ。裏切られたように感じたこと、彼女の傲慢さが目に余るようになっていったこと、嫌な思いをしているのになぜか離れることができない自分。怒りも悲しみもやるせなさもあって、それはそれで自分で持っておけばよかったのに、外に投げていたことが、ずっと心の奥で蟠っている。本人に届いていたかもしれない。いくらわたしが傷ついたからって、陰口で返すのはこうして数年経った今でも思い出して苦しくなるほど卑怯なやり方だった。自己嫌悪からわたしは一度Yちゃんとは距離を置いたけれど、ほとぼりが冷めた頃、また一緒にいるようになった。ノリとか空気感とか、笑いのツボは同じだった。だから一緒にいてなんだかんだ楽だったのだと思う。
2年生になってもYちゃんとは同じクラスだった。彼女は1学期の間は部活の友だちと行動していてまた人が変わったように明るくなっていたけれど、2学期からは中1の頃のことを忘れたかのように、またわたしといるようになった。そのとき一日だけ、避けられて陰で悪口を言いふらされたことがある。あまりにもショックで、木曜日だったことまで覚えている。昨日まで普通だったのに、朝から目が合わないし話しかけるなオーラが出ているし声を掛けても素っ気ないなと思ったら、別の友だちから「喧嘩してる?あんたのことめっちゃ愚痴ってたよ」と聞かされた。その日の夜に「お互い言いたいことがあると思うので明日のお昼話しましょう」とメールが来て(当時わたしの中学では家族以外とのLINEが禁止だった)、何で敬語!?と慄いたのもよく覚えている。結局次の日Yちゃんはけろっとしていて、わたしも真相を聞くのがとんでもなく怖くて、お昼も一緒に食べたけれどメールで言われていた〈話〉はできなかった。弁当のサンドイッチは味がしなかった。今でも何であの一日だけそんなことになったのかは謎のままだ。
もしかしたら、あれは中1ときわたしがとった態度への仕返しなのかもしれなかった。そう思っても、怒りに駆られた自分が本人のいないところで放ってしまったYちゃんを貶めるような言葉は、呪いのようにわたしの記憶に染みついて離れてくれない。Yちゃんとは中3でも同じクラスで仲良くしていたし、高校に上がってからも同じで、卒業した今でもたまに連絡をとったりするし、趣味が同じなので今年は夏に一緒に遊びに行ったりもした。もうYちゃんはあの頃のことは黒歴史として葬り去っているかもしれない。何事もなかったかのように、今のわたしたちの関係はとても平和だ。
向こうはどう思っているか、そもそも覚えているか、それすらもわからない。けれどわたしは、ずっとあのときの自分の失敗を古傷みたいに抱えて、ことあるごとに思い出されてしまって後悔に苛まれている。他者を傷つけたくてやったことや言ったことが、結局は自分を苦しめている。愚痴とは違う、明確に意思を持って研いだ言葉を本人に届くかもしれないところで投げていた自分、その事実を、ずっと、許せないでいる。