誤訳だらけだけど読みやすい訳と、正確だけど読みにくい訳のどちらがいいかという話は、場合によるだろう。論文、契約書、取扱説明書などで、どちらか選べと言われたら、後者を取るしかないけど、エンタメ小説の場合は前者でもいいと私も思う。
ウィアーの『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の日本語版は、前者に該当するようだ。ほかの書籍でも、Amazonのレビューで誤訳を指摘している人を見かけたことがある。
逆に、正確だけど読みにくい訳も存在する。たとえば、ガルシア=マルケスが書いた『百年の孤独』の日本語版(新潮文庫)は、冒頭部の訳に引っかかる所がある。
マコンドも当時は、先史時代のけものの卵のようにすべすべした、白くて大きな石がごろごろしている瀬を、澄んだ水が勢いよく落ちていく川のほとりに、葦と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった。
という冒頭2つ目のセンテンスが、翻訳スタイルに問題があるせいで、とても読みにくくなっている。
原文『Cien años de soledad』(スペイン語)は、以下のとおり。
Macondo era entonces una aldea de veinte casas de barro y cañabrava construidas a la orilla de un río de aguas diáfanas que se precipitaban por un lecho de piedras pulidas, blancas y enormes como huevos prehistóricos.
英語版『One Hundred Years of Solitude』(Penguin Books)では、次のとおり。
At that time Macondo was a village of twenty adobe houses, built on the bank of a river of clear water that ran along a bed of polished stones, which were white and enormous, like prehistoric eggs.
スペイン語の原文と英訳を比較すると、文法が似ているので予想どおり語順はほとんど同じ。他方、日本語訳は後ろから順に訳しているので、語順が大幅に異なる。日本語訳は、長いセンテンスを後ろからひっくり返して訳しているから読みにくいのだ。たしかに、中学や高校の英語の授業では「後ろから訳せ」と教わった記憶があるけど、私はこの訳し方が好きではない。
このセンテンスのコアとなるメッセージは「マコンドは小さな村だった」というもの。マコンド村を読者に紹介している。スペイン語と英語では、このメッセージをセンテンスの冒頭で示している。しかし、日本語訳では卵だの石だの川だのと、枝葉(尾ひれ)の情報が次々に登場するので、読者は作者がこのセンテンスで何を言いたいのかわからないまま読み進めることを強いられる。「村」というキーワードが出てくるのは文末付近。これでは「マコンドは村である」という紹介メッセージが伝わりにくい。
英語などのヨーロッパ言語では、主語と動詞を文頭に置くことが多い。主語+動詞の骨組みに続けて詳細情報を付け足していく。しかし、日本語は文頭に置く主語と文末に置く動詞相当語で中身(詳細情報)をサンドイッチする構造なので、長いセンテンスは書き手にとって書きにくく、読み手にとって読みにくい。
さらに言えば、日本語は文末まで読まないと肯定文か否定文かがわからず、疑問文かどうかもわからない。サンドイッチの中身が長いと、読者は文末にたどり着くまで宙ぶらりんの状態に置かれてしまう。
だから、ここで「マコンドは村である」という中核情報を早めに出さないのは、読者に対して不親切だと思う。後ろからではなく、頭から訳してほしい。
頭から訳すなんてことができるのか、と疑問に思う人もいるかもしれないので、試しに冒頭の日本語訳を頭から順に訳す形に書き直してみる。
当時のマコンド村は、葦と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さなものにすぎず、家のそばを流れる川の水は透き通り、瀬にはすべすべした石がごろごろしていたが、白くて大きかったので、さながら先史時代のけものの卵のようだった。
プルーストの小説だと、1文の長さがこの数倍になることもあるので、後ろから訳すとわけがわからなくなってしまうよ。