※ネタバレあります。一応見えないように映画につながる話を冒頭仕込んでます。ネタバレせずに映画を観たい人は観てから読んでね。
映画『来る』を観た。「オムライスじゃねぇんだよクソガキ」というフォロワのフォロワがたびたびツイートしている言葉に惹かれてついに観てしまった。
なぜかわたしは「オムライスじゃねぇんだよクソガキ」が気に入っていた。なんでその言葉になったのか、ホラーなのにどうしてオムライスなのか、子どもを指す言葉がクソガキというチョイスになったのか、じわじわと気になって、気になって、観てしまった。
たしかに、映画を観終えて「オムライスじゃねぇんだよクソガキ」になって、わたしは面白くなってしまった。唐突にオムライスの夢と歌で妙に明るく終わるその映画。なにも分からない結末。だけど、わたしのなかの『来る』は不思議と腑に落ちるものだった。
わたしは子どもが嫌いなわけではない。可愛らしいと思うし、泣いたり寝転んで抗議しているところを見ると親御さんの大変さがじんわりと染み込んで、できることがあればしようと思う。だけど、わたしは子どもを育てたいとは思えないし、できる人たちを尊敬している。
だって子どもは、人間の器という肉体を持った、人ならざるものだから。人ならざるものを、大人どころか人になりきれず未だにゆっくりと成長していく途中にいるわたしには、人として育てることはできないと感じている。
そこで、『来る』と見たとき、人ならざるものと人のあいだにいる子どもという存在がとてもくっきりしたのだった。結局、来ると言われていたアレという存在は映画を終わりまで見ても明かされることはなかった。だけど、理不尽で、理解できなくて、想像では補えないことをしてきて、何かを要求してきて、でもうまく伝えてはくれないアレは、わたしには「子ども」そのものだった。
アレは「大人」ばかりを襲う。「大人」たちは、大人になったものの、いろいろなものから目を逸らし、欲望を先走らせ、大切なものを後回しにし、見栄と「子どものような」振る舞いをしながら、それでも自分は大人だと盲信してやまない生き物だ。そして子を生し、当たり前のように子育てをする。自分のことを大人だと思い込んでいる子どもが、子どもを育てるというグロテスクな環境。
それでいて、「大人」たちは、もう遊びで虫を殺したりはしないし、身につけてきた言動でそれなりの駆け引きを他者と行い、それで社会性を保てていると思っている。それがたぶん、彼らにとっての「大人」なのだ。そしてその「大人」のルールを、子どもは知らない。そのルールだけが「大人」と子どもの区別のようだった。
大人のふりをしたパパが、ストーリーのなかで唯一「何食べたい?」と望みを聞いてくれてうれしくて答えたのがオムライス。それは結局叶わないのだけど、レストランでママが食べさせてくれたのはオムライス。自分の希望を、叶えてもらえるうれしさと安堵感と、瞬間的に受け止めてもらえたと思えるものの象徴が、わたしにはオムライスに見えた。
オムライス の くに に 行ってみたいな。おもちゃ も せんせいも、ぜーんぶオムライス
オムライスのうたは、子どもらしさを叶えてもらえた明るさと、無邪気に望むものはなんでも叶ってほしいという底なしの欲望と、叶わないならぜんぶぜんぶ壊してみたいという素直な残虐性が詰まっている気がする。
ケチャップをかけて食べてしまえばいい。おもちゃもせんせい(「大人」のルールを漫然と守っている理不尽な「大人」)も、ぜんぶ、オムライスみたいに。そしたら満たされるのかな。おなかいっぱいになるみたいに。
アレはもしかしたら、そんなピュアな動機で「大人」たちを殺すのかもしれない。ケチャップいっぱいに。それで満たされたような気がするけど、なにか足りない。
ママがレストランでオムライスを食べさせてくれても、ママは知紗がいなくなればいいって思うこともある。そうすると、一瞬でも「何食べたい?」と気持ちを受け止めるポーズを取ってくれたパパは素敵に見えてしまったのだろう。残酷だ。本当に、受け止めてくれたら良かったのにな。壊さなくて済んだのにな。こんなふうに、アレと子どもはわたしにはダブって見えていた。
除霊の類い全部盛りのシーンは、駄々をこねる子どもをなだめすかすためにあらゆることを尽くす親のように見えたし、さあ来なさいと構えた霊能力者は理想とされる大人の姿に見えた。傷つき痛みに耐え、痛みを知り、癒えぬ古傷を抱えてなお怪異(子ども)と向き合う大人。訳の分からない存在に疲弊しつつ世話をする覚悟を決めて使命を負うのは、親と呼ばれるすべての人たちが経験することのように思える。
痛みを感じながら苦しんだ野崎と、痛みを恐れない真琴が生き残って、眠る知紗とベンチに3人で身を寄せ合っているのは家族の姿だった。どうすんだこれ、と混沌のなかでもちょっと脳天気な、でもなんとかしようという姿勢が、「なんの夢みてるんだろうなぁ」「オムライスの夢」というやり取りに滲み出ていて、やっと知紗は大人に、子どもらしく扱われると思ったのだ。
たぶん、挫折したり嫌になったりしながらも、寄り添って分かろうとし、向き合っていくのが育児なんだろう。それが子どもを人たらしめていく。
わたしの父と母は自分のことで精一杯で、わたしを生存させ、学校に行かせるのが精一杯だったと思う。わたしは両親に「えらかったね」とか「悲しかったね」とか、気持ちに寄り添う言葉をかけてもらった記憶がない(記憶がないだけかもしれないと、両親の名誉のために追記する)。きっと、わたしもお守りを引きちぎり、訳の分からない不気味なことをする怪異だったのだと思う。
ただ、気持ちに寄り添ってほしかったなって、渇きはあった。いまのわたしがかろうじて人間としてギリギリ成立しているのは、人ならざるものだった頃に祖母や異国の大人たちが寄り添ってくれたからで、現在は各々の距離でできるかぎり寄り添ってくれている大切な人たちがいるからだろう。
映画を観終えた直後は「オムライスじゃねぇんだよクソガキ」そのものだったけれど、わたしのなかで咀嚼され、わたしの子ども時代や現在と重なる物語が言語化されたいまは、なんとも言えない切なさがある。
だけどやっぱり、もう一度最後のシーンを見たらきっと反射的に「オムライスじゃねぇんだよクソガキ」って思ってしまうんだろうな、というどうしようもない「大人」の自分しか想像できない、まだまだ未熟な自分なのだった。わたしに子育ては百万年早いということだ。おしまい。