深夜、ココアと一緒に。(24時)

sora_ao_
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思考に耽る深夜。今日はお洒落で可愛いクッキー缶から2粒と一緒に。思考に耽る時間は大抵よくない事があった時という謎の方程式、……誇張表現があった。思考に耽る時間は大抵よくない時があった時か或いはよくない事を思い出した時だ。今日は残業。勿論日を超えるレベルでは無かったものの、そこから予定が音を立てて崩れたもので。

某ゲームが出来ないとか、某ゲームが出来ないとか、某ゲームが出来ないとか。これだけだと何とも味気ない気もするが、要はうつくしいものに触れる時間が減ったのである。そして無為に過ごす時間が増えるのである。深夜の時間は無為ではないが、愚かなひとであるので無為にしてしまう、そういう意味で。ああでも、その無為を無為で終わらせないものを手に入れたのでは?そう思い至って今に至る。「誰にも見られていないけれど、誰かに見られているかも知れない」相反するようで同居するふたつを混ぜ合わせている場所を見つけられた事に感謝している。基本的に世界を恨んで世界を愛しているけれど、この事には感謝をしている。

感謝。

いっとう柔らかい感情だと思う。愛していても感謝は出来るし恨んでいても感謝が出来る。対象に向ける感情の如何を問わず出来る。無関心?それは元々が無なので感謝も何もない。例えば親に感謝をしている。人間として生きる事の適性が大変低いから生を授かった事は恨んでいるし、趣味を否定した事も夢を否定した事も少数派を視野に入れない事も──まあ列挙すればキリのない恨み方をしている。とはいえ人間適性の低さに繋がるが、いろんな事を気にし過ぎなのだ。周囲から見ればなんの問題も無い……寧ろ仲のいい親子に落ち着くと思う。「石橋を叩き割って沈む」女という大変不名誉ながら否定は出来ない称号を得たからには両親のいう「聞き流せ」が出来る筈もない。今もそうだ。その癖指示は忘れる。いや、仕事の話は蚊帳の外だ。

感謝。

では恨んでいながら何を?と思うならそれは他でも無く何ともまあこの年になる迄このメンヘラを育てあげた事だろう。死んでやりたいと思った事も軽度の自傷行為に走った事もあったが、とかく生きているのだ、この生命は。なんともまあ生き汚いが、今更なのでどうしようもない。だって見届ける迄死んではなるものかと思うコンテンツがあり、食べる迄死んではなるものかと思うグルメがあり、行く迄死んではなるものかと思うスポットがあり、読む迄死んではなるものかと思うストーリーがある。この贅沢を抱えていては、死んでも死に切れない。仕方ないので今日も生きている。自分の好きの為に。まあでも人間、そんなものだよな、とは最近の感想。別に人間きらきらしているように見せかけている部分が大半でも不思議じゃないし、見せかけの輝きだけの人だっているのだろう。であれば、輝かない代わりに取り繕うのをやめた人がいてもいい。とはいえこの文章だって取り繕っている側面はある。いや、どれもほんとうの自分で場面によって使い分けをしているだけか、失敬。閑話休題。

感謝。

いっとう忘れたくない感情でもある。好きでも嫌いでも愛していても恨んでいても、感謝が出来る限りは対象に優しく在れているのだ。それがいい。優しく在れるのをよしとする、みたいな話をすると「優しい人」だと形容されるが、「優しく在る事を切望する人」と「優しい人」はだいぶ違う。前者、とりわけこの人間は、優しさの見返りを優しさだと思っている。よく恋愛で耳にする「愛されたければ愛しなさい」、あれが優しさでも同じだと思っている。「優しくされたければ優しくしなさい」、うるさいな先にソチラが優しくしてくれ、今この人間はそう思ったので、どう足掻いても優しくはない。そういう事だ。

あと優しく在ると何がいいか──というか優しく在れるという事は即ち自分は精神的に安定している状態なのだ。切羽詰まっていると人間、どうしたって厳しくなる。したくもない苛々が募って仕様が無い。それであとで思い返しては一人大反省大会が開幕する。碌でもない、なさ過ぎる。なので優しく在りたい、たぶんそれだけでうまい事こころもからだも回るのだけど、それ「だけ」の為に前提となる条件を満たすのもまあまあ難しい。難儀だね、人間とは。

冷めたココアを流し込んで、クッキーは3粒に増えた。こんなところでふたつめ、お終い。