大道芸を見た。大層喋りの巧い人だった。というか喋りが巧くないと成立しない職業だと思った。一生喋っていた。なんなら芸をしている間もだ。銃だと弾を補充する時間があるがその時間すらないと思わせるレベルだった。熱狂とか興奮は勝手に生まれるものではなく技術によって編まれるものでもあるのかと思った。場の操作、というのをあんなに巧みにしているのを目の当たりにしたのは、人生で初めてだったので。……或いはエンターテイメントを摂取する時にそんな事を気にかけるようになってから目の当たりにしたのは、人生で初めてだったので。
その大道芸人に対して抱いた印象は、とにかく素直な人、裏表のない人。なんでも喋る。べらべら喋る。
「こんな事で拍手くれるの?」「そこのお姉さん拍手の準備バッチリ完璧!」「思ったよりも盛りあげてくれるから調子乗ってもう1個披露しちゃおっかな」褒め言葉が湯水のように溢れていた。職業柄、子どもを褒めるシーンは幾つあっても足りない人間なもので、このレパートリーは見習うべきだなあと思った。たぶん反射で出て来るレベルに経験を積んでいる。この道一筋11年だそうだ。
「日本で3人しか出来ないんですよ!」「この習得に5年間かけました。毎日6時間の練習を」語りが巧い。正直、大道芸の凄さポイントとか度合いとか、そもそも大道芸をそうそう見る機会のない人間たちには理解が困難だ。それに、匠の技は往々にして巧み過ぎて凄く見えない事が多い。具体的な数字を挙げる事で、今から目の当たりにする事象の凄さを、事前に植えつける事が出来る。成功すれば勿論拍手。“凄い”という感情は作る事が出来るらしい。感情は複雑らしいが、実はそうでもないのかも知れないね。
「そこ危ないんでね、捌けるか近く寄って来るかして」「借りてるスペース的にブロックの内側じゃないと困るんです」駅前のごみごみするスペースだ。前のめりで参加する人から遠巻きに眺めるだけだとか野次馬根性だけだとか、そういう人もいる。だから自然と人間は無秩序にパフォーマーを取り囲む。が、それを許される秩序内に押し留めるのも巧かった。決して怒りの感情は見せないがパフォーマンス中の浮いた声音が平坦になっていた。それで大概指示に従う。大人しく芸を見る事にして人が寄って来ると人懐こく「見てくれるんですか?! ありがとうございます!」──天然人たらしならぬ人工人たらしだ。
「借りた場所の外で居られるとあとで僕が怒られるんでね!」誘導が終わったらカラッとそんな事をいう人だった。結果的に何度も聞く事になったフレーズだから自分は割と飽き飽きしていたけれど、ああいう外でやるパフォーマンスは初見の人が公演中にどんどん更新されていくので、初見向けのパフォーマンスが随所に見られた。でもすぐに褒めるし、最初に「こういうパフォーマンスをするよ」という予告編をしているので、それが気になった観衆はそれを見る迄、よほど時間に追われていない限りは留まり続ける。
「めちゃくちゃ難しいんですよ! チャンス3回ください。もし一回で出来たら大きな拍手と歓声をお願いしますね」各パフォーマンスの大技の時にほとんど同じフレーズを振り返していた。そしてこの公演中、すべて1回でクリアしていた。自分は大変性の悪い人間なので、ほんとうは出来る確率の方が圧倒的に高いのに、客寄せの為に拍手や歓声の得られ易い言葉を選んでいるのでは?と思ってみたりした。とはいえそれが悪い事だとも思わない。ただ巧いなあと感嘆に浸るのみだ。
他にも色々あった。音響の調子が大変悪そうで、ガビガビの音質だったので途中で一旦地声に切り替わったり、そのあとスタッフか大道芸仲間かは知らないけれど、音響を何とかしれくれるお兄さんがいた、とか。自分はその2人の関係性というか、打ち合わせの時の会話が気になった。こういう大道芸ってどんな筋道を考えてやるものなんだろうか。他はパフォーマンスの中に、観客を巻き込む形のがあったとか。
「ここからは真面目な話。これが凄いと思ったら、あとで黒い箱を持って回るので、お金をください。硬貨ではなく、お札の方」あ、凄い。そう思った。お金の話を大真面目にし始めたから。何も暈さなかったのは、お金の話をギャグにするのは失礼な気がしたからとかだった気がする、……それでもその場を離れる人は少なくて、それに又「普通はこの話すると半分くらいは離れて行っちゃうんですけどね」と大真面目に話を再開した。あ、凄い。そう思った。こんなにこの類の話をされても不快だと思わないのは、最初から赤裸々と思えるほどにべらべらとお喋りをしていたが故の、裏表のない人物像が観客に形成されていたからだと感じた。パフォーマンスとしてのお喋りの他に、こんな活かし方があるのかと感嘆した。なんたる舌技、2000円くらい渡してもいいな。
「凄いと思ったら、お札の数が増えたり色が変わったりするとうれしいなあ。これは真面目な話ね」これが観客に響いたのは恐らく、語りが素直だったから、パフォーマンスに興奮していたから。──自分に響かなかったのは恐らく、その語りがエンターテイメントではないと思ったから、語りを聞くのに興奮していたから。日本でたった3人しか出来ないパフォーマンス、その最中だった。ここで自分の中での語り巧さランクがいくつか崩れた。自分の中で、お金を欲する語りとパフォーマンスが同じタイミングですべきものとして結びつかなかったからだ。観客のプラス感情を最大限引き出すのに、シビアな現実、お金の話をかき混ぜられて、自分は冷めたところがあった。単なる好みの話。この舌技なら、1000円かな。
「お、シャイボーイもありがとう」「お小遣いは大切にね」カラッとした人柄とそこからの感謝、に、とはいえお金の話を真面目にといっておいて、自分が欲したものを得ておいて、使い道は慎重にというのは、変な気がした。両親のどちらかから貰ったものかも知れないのを差し置いても、大切に使うね、とかじゃいけなかったんだろうか。欲しいのか、要らないのか。まあ人間は大なり小なり矛盾した感情と同居して生きているので仕方ないのかも知れないけれど、終盤にかけて喉の奥に小骨が刺さったような感覚があった。でもこの小骨の痛みも勉強にはなった。諸々加味したら1500円だったかも。
「なあ、マイクやばかった」「うえ〜いお疲れ様〜」スマホのカメラが回る。気持ちのいい笑顔は変わらないのに、何となく、そっちの方が素なんだろうな、という気がした。でも撮影をしているという事はSNS用だろうから完全な素とはいかないのだろうな、とも。或いはプライベートとは別側面なだけで素ではあるのか。あの語りを天然でやっているのだとしたら、天才が過ぎる。ああいう話術はどう身につけるのか知識と場数か、だとしたら知識は。あのトークの巧い人にも師と仰ぐ人物がいたとするなら、それは興味深い。ただ、流石に不躾にも話術を聞く気にはなれなかったので駅を後にした。紙袋の中には2月、甘い催事の甘いお菓子。有意義で幸せで、でもちょっと苦いような、悪くない一日だなあと、人の増える14時に思った。お終い。