・『WORKSIGHT[ワークサイト]22号:ゲームは世界 A-Z』、コクヨ、2024年
橋本輝幸さんの投稿経由で知った本。シリーズで通し番号がついていたり、紙面の作りは雑誌的。ホームページには「〈WORKSIGHT〉は、コクヨがコンテンツレーベル黒鳥社と共につくるオウンドメディアです。編集を生業としない “外部編集員” をメンバーに迎え、外からの要請ではなく内から湧き出る視点を元に、新たな社会の萌芽を見出します」とあり、中心はニュースレターらしい。
22号はゲームをめぐる最新のトピックを集めている。関心があったのはitch.ioやオルタナティブ・コントローラーのMechBirdなど。全体的にひとつのトピックに割かれたページ数はそれほど多くはない。雑誌のゲーム特集ってこういう感じだよな、という趣もまあ、ある。いろいろな意味で巨大化したゲーム産業の全体を俯瞰しようという気はもはや無いが、あっちではなにかやっているらしいと横目で見ておくくらいは、という(私の)購買動機にはそれなりに合致していたのかもしれない。
MechBirdはどこかで名前を見たことがある気がしていたのだが、以前OujevipoのPierre Corbinaisについて調べていたら、CorbinaisがInstitut Françaisでの展示をキュレートしたときのパンフレットが出てきてそこに載っていたのだった。CorbinaisについてはLibérationのこの記事が面白かった。
・渕野昌『自己隔離期間の線形代数Ⅰ』、1月と7月、2023年
出版社の1月と7月から出た数学書。漫画家のpanpanyaが挿絵を描いているというのが直接の購入動機。線形代数はなんどか勉強しようかなと思いつつ挫折(というのもおこがましい放棄)を繰り返してきたので、書名から想像されるコンセプトに惹かれたというのもある。
ところがいざ手元に届いて読んでみたら驚いたというか、控えめに言ってなかなかに変わった本のようだ。「前書き」のエピグラフに西脇順三郎『壌歌』が引用されてそこに9行もの脚注がつけられているのはまあ百歩譲ってこういう数学書ってあるよね(ほんとうに?)とは思えるのだが、その後も脚注をこれでもかと濫用し(脚注内にも脚注がつく!)意識の流れもかくやという勢いで記述、しかもその文章は読点を多用した非常に独特なスタイルで書かれているのだ(これはMLAフォーマットに影響を受けたものだと説明される)。結局、第1章注19で著者直筆の板書太字体の画像が挿入されるに至ってこれはまったくの奇書であるとの思いを確実にした。
とはいえ、こういったスタイルにまったく理由がないわけではなく、題名の通り自己隔離期間に自学自習することを想定して書かれた本として、「対面授業」での教師の説明を、その雑談や補足説明も拾いつつ、本文の記述の一貫性も保ちながら本にするという困難な試みを実現しようとした結果、ある種の20世紀小説すら思わせる形になってしまったのであろう(もちろんこれは偶然や収斂進化的な事象ではなく、著者は明らかにそういった文学形式を意識している)。
数学に関してはずぶの素人であり、本題である第1章以降の内容についてはその当否を云々する立場にないのだが、前書きなどを読んだだけでなかなか衝撃を受けた。考えてみると、数学書の言語というのは独特で興味深いものがある気がするし、エッセイや自伝が評価されている数学者も少なくない(最近、グロタンディークの自伝について読んだ)。数学のエクリチュールについて考えたくなってしまう。
・ハンス・ブルーメンベルク『メタファー学のパラダイム』、村井則夫訳、法政大学出版局、2022年
ブルーメンベルクはタイトルや要約を見るとなんだか面白そうな気がするのだが、実際に読んでみるとわからないようなわからないようなとなりがちだった(『世界の読解可能性』とか……)。本書も読みこなせる自信は到底ないのだが、前書きを読んだ時点ではわりあい馴染みやすいようだ。思考の形式としてのメタファーにはだいぶ前から関心があったので、読めると嬉しいのだが。
・ジャック・ハルバースタム『失敗のクィアアート』、藤本一勇訳、岩波書店、2024年
近代的な抑圧権力に抗しようとしたとき、「規律訓練的」とされているものをほんとうに手放す必要があるのだろうか? 権力の源泉は、判読可能性や科学性そのもののうちにあるのだろうか。
・Jesper Juul, Handmade Pixels, The MIT Press, 2019
イエスパー・ユールのインディーゲーム本。『ハーフリアル』よりはいまの関心に近そう。デベロッパーへのインタビューの全文はホームページで公開するということだが、Nathalie Lawheadなどまだの人もいる。今後新たに公開されたりするのだろうか。