2024.3.10

fujikana
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山の中を歩きたくなって、近くのトレッキングコースを歩いた。途中でコースを逸れたくなって、木につかまりながら、あちこち、落ち葉を踏みしめた。しばらくすると登ることに飽きて、ピクニックシートを広げて座り、途中で買った最中を食べ、珈琲を飲んだ。日差しが眩しい。日差しが当たらない場所に移動するか迷ったけど、日差しが当たらない場所は、雪が残っている。お尻が冷えるのは嫌だ。そのまま日差しの中にいることにした。

この里山の木は、植林した木たちなのか。みんな細い。細いけど生きている。植えられると育つ、種をまかれると生まれる。人は生き物を勝手に移植するけど、そこで命は巡るんだな。人工というのはどこからどこまでを言うのか、よくわからない。座ってぼんやりしていると心地よくなって、はじめは展望台まで行こうと思っていたけれど、辞めた。山だからって登らなくてもいい。山に会いにきたのだから。まわりに人間はいない。わたしだけだ。落ちた枝を拾って、その模様を見てみる。幹と離れたお前は、このあとどう朽ちていくのか。聞いてみるけど返事はない。何をするわけでもない。ぼーっとする。大人になるとこういう時間が減るのはだめだよな、と勝手に反省をはじめる。人間。

木も、土も、今お尻の下でうごめいているだろう小さな生き物たちも、空も、遠くで聞こえた鳥の声も、あらゆる生き物が生きているこの世界の末席にいるというのに、人間っていうのはどうしてこうもでかい顔をしているんだろう。

ここにいるものは、共に生きる、なんと呼べばいいか。

後に続く言葉を考えた。仲間、という言葉は苦手だし、友達という言葉も使いづらい。

友。友なら言えそうだ。友の音が、共、と一緒だからかもしれない。仲間には「同じ」というニュアンスがある気がして怖いのだ。共に、ならバラバラでも許される。

「ここにいるものは、すべて、友」

心で言葉にしてみる。木々の存在が大きくなって、わたしはもっと小さく広くなった。ほんとやだなあ、人が殺されるのも、木が切られるのも。

この身体でも、虐殺をするだろうか。