2024.5.2 忘れない練習

fujikana
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忘れたくない、と思った。

記憶がうまくできないことについては、半ば諦めていたけれど、誰に会ったとか、なにをしたとか、そういう具体的な事柄というより、その日があった、どんな一日であっても、その日が確かにあったことを、記憶したい、と思うようになった、なんとなく。

インスタントカメラを買って、一日に、一枚だけ写真を撮ることに決めた。

5月1日から初めて、まだ二日目。

その日、このときだ、と思う瞬間にシャッターを切ろうと思っているのだが、二日目にして気づいたことがある。

主体でいる間は、その時、と思うともう遅い。なぜなら、カメラを構えていないから。当たり前だ。観察をする身体で(とも限らないのか?)、いずれにせよ、カメラを構えていないと、その瞬間は逃してしまう。かといって、一日中カメラを構えているわけにもいかない。

だから、あ、この瞬間、今撮っとくか。と思ったら、その対象を一旦定めて、カメラを部屋に取りに行き(あるいは鞄から取り出し)、わざわざ撮る、という流れになっている。これが良いのかは分からないけど、今は一旦このやり方。もっとスムーズな撮り方が見つかるかもしれない。

でも、面白いのはその瞬間を撮る、と決めたそのときから、まだ現像もしていないのにそのビジュアルが私の頭に張り付いて、記憶、となっている。覚えられそうで嬉しいと思う反面、時間の捏造だ、という気もする。いい効果か悪い効果か分からない。でも、この取り組みは少し続けてみようと思っている。

今日は、ホルモンバランス的に注意散漫で絶対に何かをやらかすだろうなと思っていたら、案の定、夜、荷造りの最中に玄関で盛大に鍋の蓋を割った。鍋は、明日からの能登のボランティアに行くために車に積もうとしていたのだった。すでに車は荷物でパンパンだったので、蓋も割れたし、無理して鍋を持って行くのは辞めた。

散ったガラスは、タイルに跳ねて、残響となってしばらくチリチリ鳴っていて、思ったよりもその声は長引いて、泣いているみたいでちょっとかわいかった。

飛び散ったガラスを塵取りで履いていると、祭りの片づけをしているおじさんが訪ねてきて、配線のことで我が家の庭を後で通らせてほしい、とお願いされ、もちろんどうぞ、と答えた。今日は家の隣の神社で子供たちの祭りをやっていて、神社の前には神輿が出ていた。たしか、明日も何かイベントがあるとかだっけか。

夜、ビンゴ大会で盛り上がる子どもの声を聴きながら、地域にこんなに沢山子どもが生息していたのか、とびっくりした。神社のあちこで適当に座ってお菓子を食べている子どもたちの姿に安心した。

飛び散ったガラスをちりとりに集めて、それを写真に撮った。

昨日撮った写真のことも覚えている。イランの反政府デモに参加した女性が、治安部隊にレイプされた後殺害されたというニュースが投稿されたTwitterの画像を撮ったのだった。

このことも、こうして書いたことで、また記憶に残っていく気がする。

記憶とはなんだろう。

誰かに話したこと、誰かに向けて書いたこと、撮った写真が焼き印のように記憶として残るのだとしたら、これまで何が焼き付けられてきたのか、これから何が上書きされるのか。

カメラ、現像に出して取りに行く時のドキドキする時間、好きだったな。

その記憶は、姫路の街にだけある。