往路便は真夜中の0時5分に羽田を出発する予定だった。19時前、シャワーを浴びてすっぴんにマスクで家を出る。もうこの先、ベネチア空港の近くの宿に着くまで風呂には入れない。夏の終わりだから、ちょっと厳しい。頭かゆくなりそう。
慌てないための早め早め行動!を心がけていたら20時には羽田についてしまう。早すぎ。家で握ってきたおにぎりをひとつ食べる。もう米の飯は一週間後まで食べられない。飯と風呂と寝床に神経質なたちだし、だいぶ良くなってきたとはいえパニック障害もあった。観光客であふれる羽田のベンチで、このあとどうなるんだろうと心底心細くなる。
エミレーツ航空の窓口が開くやいなやスーツケースを預け、見送りと荷物持ちに来てくれた夫と別れる。出国審査は瞬時に通過し、私は生まれて初めて国際線の搭乗エリアに足を踏み入れた。真っ先に目にしたのは食欲旺盛な外国人観光客が、フードコートみたいなところでお好み焼きやラーメンを頬張っているところ。ソースの焼けるにおいと鶏ガラのにおい。
見つけた売店でリポビタンDを買って、水物袋にぎゅうぎゅうに詰める。お守りがわりだ。
さて、あと3時間半、何をしていいものか検討がつかない。とりあえずお湯と水が両方出るサーバでタンブラーに白湯を汲み、ちびちび飲みながら最後の日本語を惜しむようにradikoを聴き、いい曲だなと思ったshowmore「aurora」をダウンロードで買った。これを繰り返し聴きながら、歯磨きをしたり、トイレにこもって汗シートで全身を拭いたり(ほんと空港ってトイレだけは困らないようにできてますよね)、ゲートの端から端まで歩いて探検したり、発表の練習をしたりしてひたすら時間を潰す。真夜中のフライトなので本は読まないだろうと思って預けてしまったけど、こんなに待ち時間があるなら文庫の1冊くらい手元に持っておいてもよかった。
それにしても本当に幅広い人たちが国境を越えていく。こんな深夜に移動するのは、壮年世代のビジネスマンや若い旅行客ばかりかと思っていたのに、赤ん坊も幼児も、白杖をついた人も車いすの高齢者も次々にゲートに向かっていく。健康体でこのラインが越えられなかった今までは何だったんだろうと思いながら時間を潰す…。寝たら死ぬ。
隣のゲートは23:00出発が夜中の3:00出発に変わっていた。うおお、それはきついわ、と思っていたら、私の乗る便も搭乗案内時刻が10分、20分と遅れだした。頼む飛んで! 早寝の私は22時半くらいからもう眠くて、何度も何度も歯磨きしたり屈伸したりしてやり過ごした。結局30分は遅れずに搭乗することができたが、この時間は非常に長く感じた。
少し出発が遅れた以外はトラブルらしいトラブルはなく、満席のドバイ便は飛び立った。私の座った位置はエコノミーの中ではわりと前側(課金済)の通路側。ここからフライトは14時間半あまり。結論からいうと、十分にありがたいほど安定して飛んだ。途中30分ほど小刻みな揺れが止まらず、ベルトサインが消えなくて、ひとりドキドキしていたが、周りはわりとぐーぐー寝ていた。ベルトサインが消えなくて膀胱限界でおしっこもらしたらどうしよ?という事がとにかく怖くて、頻繁にトイレに足を運んだ。あの機内で一番たくさんトイレに行ったと思います。通路側がとれてよかった。そうじゃなかったらどこかのタイミングで隣席の人に怒られていたと思う。
さて、ファースト機内食は夜中の2時に運ばれてきた。寝るために照明は半分落とされて赤っぽいライトになっている中、机に置かれるビーフ焼きそば。夜中の2時…。食えるか!食べ物を残すのは嫌いなのだが、完食は厳しい。エミレーツはカトラリーが金属製でちゃんとしたのが来て、おしぼりはエキゾチックな香り付きだ。へーこれが…と思いながら味見する。左上の野菜サラダが一番喉を通った。チョコムースは想像の3倍甘かった。
あとはひたすら耐える時間になる。ノイキャンイヤホンをはめて音を遮断し、少しうとうとしてから時計を見たら、30分経っていなくて絶望しそうになる。航路図を見ても全然目的地に近づかない。そりゃそうか、0時に出発して14時間半のフライトって、日本にいたら就寝してたっぷり睡眠とって、起きて身支度して仕事行って、午前の仕事してランチして、午後の一仕事終えて、というところまで飛行機に閉じ込められっぱなしなのだ。そう簡単には着かない。家から持ってきたお気に入りのクッションを抱きしめながら、うとうと、白湯、音楽、トイレ、うとうと、を繰り返す。
飛行機は夜と一緒に移動しながら西へ西へひたすら飛んだ。まったく縮まらないように思えても、飛んでいる限りは目的地に近づき続けるのが飛行機のありがたいところ。残り3時間くらいから少し心の余裕が出てきた。その頃少し照明が明るくなり、朝ごはん(?)が出てくる。寝起きのカラカラの口にはつらい感じのかためのオムレツとトマト味の豆と雑穀パン。またおかず一口のみ。フルーツはやたらおいしくて完食。果物の水分が、乾燥しきった喉に本当にありがたい。のどぬーるぬれマスクなんて何の意味もなかったよ。ミックスナッツとマフィンはあとで食べる用に鞄に滑り込ませておく。
ダウンロードしておいた「LIGHTHOUSE」、飛行機で観るのを楽しみにしてたのに、面白いほど内容が頭に入ってこなくてすぐに中断した。隣のアラブ系の青年がアラブ語っぽい字幕で「パラサイト 半地下の家族」を観ていたので、私もまねして日本語字幕で観る。それにしても彼、まったくトイレ行かないな、すげえな。
何にも外の風景は見えなかったけど、夜明けとほぼ同時に、きれいに着陸した。「出国手続きして、飛行機に閉じ込められて、14時間経過したらドバイに着いた」。実感はそんな感じだった。巨大なトンネルを通ってここまで来たと言われても否定しきれない不思議な感じ。
大量の乗客に流されるがままに歩き、乗り継ぎのために再度手荷物検査を受ける。パーカーを腰に巻いていたら検査係に怒られてチビりそうになった。が、リュックの中に適当に放り込んでしまった水のペットボトルは、普通に見逃されていた。ゆるいんだか厳しいんだかわからない。
ゲートのあるフロアに降りて、ずいぶん久しぶりに外の明るい景色を見た。ドバイは24時間空港なので、早朝でも混雑して免税店もギラッギラしているんだけど、窓の外の朝の光の薄いピンク色、目でみる静けさは世界中どこでも変わらないんだなあと思った。ほとんど眠れなくて激眠のうえに、今頃になってから空腹でふらふらしてきた。まったく席の空かない中東のメガ空港で、床に座って機内食の残りのマフィンを白湯で流し込み、それでもお腹がすいて、貴重な日本のおやつ(ひとくち焼き芋)をもう食べてしまった。乗り継ぎ便の出発まであと2時間半もある。またもや待ち時間。
つづく。