5月でもう一個歳をとる。特に節目でもない38歳という年齢だが、うわあもうごまかしがきかないな…という感じがする年齢である。
ごまかそうとしたものはたくさんある。能力の低さを学歴と資格でごまかし、自信のなさをお金をたくさん遣うことでごまかし、思考能力の低さを本の多読と口先でごまかし、やる気のなさを(社会的意義があるとされる)仕事に就くことでごまかし、思いやりのなさを結婚の形をとることでごまかし、等々。それら全部が無意味であった訳でもないが、わかる人にはすっかりバレていただろうし、50年後には(多分)この世にいない人間がそこまで意地を張る意味ってどこにあったんだろう。だいたい空しい。これがミッドライフクライシスでしょうか。
子どもが生まれると自分の世代の主役感が薄れるとよく言われるが、子なし女の心境としてもとっくに我が世の春は終わっている。あとはひたすら地味なダンジョン、きつめのライフイベントや天変地異をうまく乗りこなしながらどう食っていくかという所に集約される毎日。日本人として、多分逃げ切れない世代だと思うので、なんとも頭が痛いねえと思いつつも、しばらく休めるだけの財産は作ってあるので目の前に迫った切迫感はない。
切迫感がないことも、自殺対策の仕事を辞めた理由の一つだと思う。別に物理的に困窮する以外にも、切迫感を持つことはできだと思う。高度な職業意識だったり、自身がある種のマイノリティであったり、特性的にワーカホリックであったり、あと相当に思い込みが激しいとか(これが一般人にとっては一番ハードルが低いと思われる)。私は全部普通だったんです。なんだか自分のやってることは、浅瀬の水遊びのように感じていたし、行政・臨床・アカデミア・当事者・遺族がそれぞれわあわあと差し出してくる物差しの統一感のなさに、ひとつの目的(量産・製造)とひとつの物差し(営業利益)で動いてきた企業の人間には、ごまかし以上の太刀打ちができなかったというわけです。
自分の持つ「とりあえずそれっぽくできる」という力は、凡人が社会で仕事をしつつ生活していくうえでけして使えない能力ではない(はず)なので、こういったものにすがりながら小金を稼いで歳をとっていくことになるんだろうと思い、ふつーの会社員に戻ったというのが私の現在地である。
こんな諦観めいたことも考えるのに、一方では(無理とわかりつつも)幼児期からやり直せたら、次世代も育てられる程度のやさしさも持てたかもしれないのになといったこともよく考える。むしろ成人してからは「やり直し…」的なことは考えなくなっていたのに、不思議なお年頃である。