あるところに、とても普通な男がいた。
そもそも普通とは何か、どこを普通と呼ぶのか、普通の人などというものは存在するのか、という疑問についてはとりあえず今回は脇に置いておく。どうしても定義が気になるという人のために書いておくと、彼が雑談をはじめると、その話し相手は、しばらくうんうんと相づちを打ってくれるものの、決まって途中で話題を変えてしまったり、彼の話を覚えていなかったりする、そんな人だった。褒められることも、逆に怒られたり矛盾を指摘されたりすることもなく、彼の話はいつもただ流れていくだけだった。
ある日、彼は風呂につかっていて、ふと自分の親指が気になった。その日の午後に会った取引先の相手は、親指の爪を噛む癖があって、書類をめくっては自分の親指の爪を前歯でかじかじと噛んでいたのである。
彼はなんとなく、本当にどうというつもりもなく、右手の親指を口まで持ってくると、爪の先をそっと前歯で噛んだ。少し面白かった。変な感触だった。彼はそのままふにふにと爪の先を噛み、もしこれが自分の癖になったら、少しは面白い人間になるんだろうか、と想像した。そして実行することにした。
翌日から彼は、普通の男から、爪を噛む癖がある男になった。
どことなく人生が色づいたような気がした。ほんのちょっとした癖でも、あるのとないのとでは大違いだった。何かに付け親指の爪を噛むたび、向かいあった人が、少し変わったものを見るような目でこちらを見た。雑談をしても誰の記憶にも残らなかった男は、そんな経験じたいがはじめてで、ちょっと興奮した。
それから爪を噛む癖のある男は、少しずつ、いいなと思った相手の癖や言動を真似るようになっていった。
毎朝バナナを食べる習慣がある人の話を聞いて、バナナを食べるようになり、整腸剤の味が好きな人の話を聞いて、自分も整腸剤の味を好きになってみた。髪の毛をいじる癖や、顎の下の肉をつまむ癖も身につけてみた。洟をかむとき、ティッシュペーパーを三枚使う人を見て、自分も三枚使うようになり、ティッシュペーパーのストックがあっという間に切れ、ドラッグストアにしょっちゅう通うようになった。
ボールペンのメーカーにこだわり、リップクリームの香りにこだわり、パジャマの素材にもこだわった。ブランチは駅前のサンドイッチ、パストラミとパルメジャーノなんとか入りのものに、靴は革靴ではなくひもつきのスニーカーにした。
とにかくありとあらゆる癖やこだわりを、人からもらい、自分のものにしようとした。面白かった。とても楽しかった。
けれどもあまりにも癖やこだわりまみれになったので、一貫性のない、どうとらえたらいいのかわからない人になり、とうとう普通の男から不思議な男になった彼は、体がおかしな具合に膨張しはじめた。
どんどん丸く、どんどん膨らみ、会社の中にいられないほど膨らんでしまったので、あわてて外に出たが、まだまだ膨張し続けた。会社の同僚たちは彼を心配して、道行く人は好奇心で以て、彼の様子を窺った。そして、ビルの三階くらいまで膨れ上がり、丸々としたボール状の体に、これまで取り付けたたくさんの癖やこだわりがぼこぼこと突出した。
あれは私の癖だ、と誰かが言った。彼の体に、私のものだった癖がくっついている。すると他の人々も言った。あれは俺の、僕の、私の癖だ。こだわりだ。もともとは私のものなのに、あの人が真似をしたんだ。
そうして人々は膨らみきった彼の体に突進して、自分の癖やこだわりを取り返した。ボールペンのこだわりも、スニーカーのこだわりも、サンドイッチや、そのほかの数々のグルメ、香り、楽しみ、親指の爪を噛む癖も。
膨らんでいた彼は癖やこだわりを取り返されて、どんどん小さくなっていった。小さく、小さく、痩せて、元の普通の男になった。
と、思った。
しかし違った。
普通だった男は、ほんの少しだけ、ほんのちょっぴりだけ、まだ膨らんでいた。たったひとつぶんだけ、膨らんでいた。
これはいったいなんだろうと男は膨らみをつついてみた。
それは「とても面白い一発ギャグ」だった。
普通だった男は困惑した。自分が「とても面白い一発ギャグ」など思いつけるはずがないので、きっとこれは誰かの忘れ物だろうと考えた。まだ取りに来るのを忘れている誰かがいて、その人に返さなくちゃいけないものなのだ。
だから普通だった男は、「とても面白い一発ギャグ」を誰にも見せなかったし、自分で時々見てくすっと笑うことさえしなかった。ただただそのギャグを抱えたまま、誰かを待った。誰かが走って来て、この「とても面白い一発ギャグ」は私のものだと申告して、普通だった男のものじゃないと、目を覚ましてくれるのを待っていた。
普通だった男は年を取って、白髪の男になり、腰が曲がった男になった。
それでもまだ「とても面白い一発ギャグ」を取りに来る誰かはまだいない。腰が曲がった男は、棺桶に入った男になり、そして燃えた。
燃えながら煙になり、近くでその白い煙を見上げていた子どもが、ものすごい爆笑をした。子どもは腹を抱えて地べたをはいつくばり、親たちが困惑して助け上げるまで、笑い転げて涙を流していた。
おしまい。