グリーンカレー

fukikirisawa
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「……暇だ。」そうひとりごちて、TETSUは天井を眺めた。次の患者の症例をプリントアウトして眺めていたが、いくつかの術式を頭の中でイメージトレーニングして時間を潰すのも一日が限度だった。仕事に取り掛かる日取りは既に決まっていて、まる二週間も先のことだ。師走に入ってからこちら、ぱったりと仕事の依頼が途絶えた。長期でいつ終わるかも知れない依頼をひとつ受ければ、その間に入った依頼は、手術の緊急性や難易度によって、伝手のある病院への紹介で終わらせることも多い。秋口からかかずらっていた重い仕事がひとつ片付き、長く待たせていた患者をぼちぼちと対応していたが、そうこうしているうちに、とうとう仕事の谷間の時期に当たってしまった。タイミングによっては、そうした時期にこれ幸いと長瀞辺りに引っ込み、避暑がてらのホテル暮らしをすることもあるが、例年、寒さが極まる時期には、路面状況の読めなさもあって、関東圏から下手に動かないと決めていた。正月が明け、新しい年が始まっている。年の離れた子どもと暮らしていた頃には、餅を食べるなり、時期を外した神社に参りに行くなりして安閑と過ごしていたが、そうした季節感やメリハリとは無縁の日々を送るようになった今では、こうして新しいヤサで一人過ごすのも、何となしに落ち着かないような気分だった。前の住まいとは、意識してレイアウトを変えてみたが、子ども部屋はなし、書斎を作って寝室と分けたせいで逆に不便になった。大学に進むガキに読ませるためにと積み置いておいた本はほとんど処分して電書に変えたせいで、書斎の本棚はスカスカだ。それが失敗だったと気づいたのは、このヤサに越して来て暫く経ってからのことだった。本を開いてページを捲る作業と大して変わりはないだろうとは思っていたが、そもそも、読もうと思っていた本のタイトルを頭に留め置き、パソコンを立ち上げてアクセスするまでのたかだか数分の時間を億劫がることになろうとは。日光が差さない日が多くなればなるほどに、気鬱は降り積もる。年は取りたくないもんだと思いながら、すでに絶版になって古書店でなければ手に取りようのない本を枕元に引き寄せてページを捲ると、どこからともなくポン、と軽い音がした。電源を指したままのスマートフォンの画面が明るく光っている。頻々と来る連絡は、その殆どがメールだ。患者には電話番号を教えてないため、それ以外の経路で連絡が来ることは殆どないが、今の音は普段からメールが届く通知とは明らかに違っていた。あのマンションから譲介を放り出して一年半が過ぎた。手術や短期入院が可能になるような形でワンフロアをほとんど丸々改造した前のヤサについては、買い手が付いたら電話で知らせろと言ってあった。必要だった諸々の機材を片付けた後、一般人が暮らせるように戻して、相場より下げた価格で様子を見ていたものの、一度他人の手に渡った最上階など、いわくつきの事故物件と疑われるのが関の山だ。我こそはと手を挙げる物好きなど、早々現れないとは分かっていた。人手に渡る手はずがが付いたか、それにしても不動産屋からの連絡にしては時間が早い。そう思ってベッドから起き上がり確認すると、見慣れぬ番号からの通知が入っていた。ワン切りされてるところをみれば間違い電話かと思うが、着信の後にショートメッセージが入っているのが見えた。フォルダを開いてみれば、神代、と書かれた署名の後に、見慣れぬメールアドレスと、空メールを寄越せ、という一言。一瞬目を剥いたが、まあ、譲介のヤツに何かあったのなら、固定電話から着信があるだろう。その上、kamishiro.clinicというドメイン名にヤツのフルネーム。山奥の診療所で長い間無免許医だった野郎が、アウトルックのアドレスをそのまま使ってるならともかく、ドメイン登録のアドレスなど、逆に嘘くさくて笑ってしまった。ベッドの縁に腰かけて、またメールの文面をもう一度眺める。今のところ、神代には貸しより借りが大きい。相手をする義理はないと言えばないが、一応はアドレスを送ってみる。直ぐに返事が返って来る様子はない。松の取れたこの時期、世間様はただの平日だ。仕事始めも過ぎて学校が始まっている。個人病院であれば、朝の八時過ぎという時間は、受付前の長椅子に患者が座り始める時間だった。メールを送る暇があるのなら、外に出ての往診中ということはないだろう。譲介が、ヤツの代わりに外に働きに出始めたか、そうでなければ、一也が帰省しているタイミングか。二度寝も面倒で、身体を起こして台所に移動する。冷蔵庫を開ければ、昨日出掛けた合間にテイクアウトしたカレーがあった。海老入りのグリーンカレー。色が違えば思い出さないという訳でもないが。まあ本人が来る訳でもない。多少の未練がましさがあるくらいは構わねえだろうと思う。そもそも、たまにはカレーもいいかと思って買ってはみたが、結局片付けが億劫だとそこいらの店で済ませてしまった。とりあえず、食いながらメールを待つか、とレンジでカレーを温める間に、電磁調理器で湯を沸かす。都会とは言い難い場所のマンションに家移りして数年、Uターンしてより都心に近い場所に居を構えると、新築の物件では台所周りにこうしたクッキングヒーターが完備されるようになっていた。確かに、カップ麺を食うにしろ茶を淹れるにしろ、壮健と言う訳でもない自分が、火事を起こすリスクを取る必要はない。レンジの中のターンテーブルではカレーがぐるぐると回っていて、そこいらに香辛料の匂いをまき散らしている。慌ててガス周りの換気扇を付けた。朝からこうしてカレーを食うのも久しぶりだ。あの頃、二人暮らしの冷蔵庫には、通いの業者の手で卵や牛乳、調味料などの一式が常に買い足してあり、その上で食べ盛りの子どもが溶けるチーズなどを買い足すもので、時にこちらが驚くほどに中身が詰まっていた。譲介と差し向かいで飯を食べたことは月に数えるほどしかなかったが、季節の巡る三年半で、それも積もって習慣になった。コーヒーの準備と言っても楽なもので、ヒーターで温め直しが出来る、ドリッパーと一体化したサーバーに粉を入れるだけ。二人暮らしにゃ必要だろうと思ってサーバーをキッチンに置いていたのも昔のことで、沸いた湯で、きっちり三杯分のモカマタリを淹れていると、ケツに入れたスマートフォンが震えるのが分かった。メールフォルダに新規の通知が三件。一番上に並んだ、名を登録していない神代のメールには添付ファイルがある。まさかマルウェアじゃねぇだろうなと思いながら画面をタップすると、見慣れた子どもの顔が見えて、ああ、と思った。「……今年か。」と呟いたタイミングで、電子レンジがチン、と音を立てる。スマートフォンの中では、譲介が固い顔で微笑んでいた。――写りの良い写真を選んだつもりだ。どういう風の吹き回しか、いらぬ節介を焼いて来た男からのメールには、そう書いてあった。古ぼけた洋館を前に立ち、別れた頃より成長した子どもをまじまじと眺めていると、口元に笑みが浮かんでくる。シャツの首回りはまあ合格だが、濃紺のスーツは胸や腹周りが余っている。同系色のネクタイの斜めストライプに走る黄色は、そこいらにいる土手南瓜のようなご面相ならそれでいいだろうがといった風情で、明らかに吊るしと分かるスーツに最悪を上乗せしていて、ツラの良い二十歳のガキを仮装か七五三に見せていた。隣には恐らく、神代の診療所で働く女と初老の男。それから、皺くちゃだが生きの良さそうなばあさんが割烹着のまま笑っている。大学にも行かずに働き始めた子どもは、険の取れた顔つきではあるものの、別れた頃の、あの腑抜けた顔つきとも違っていた。これでいい。新しい場所でそのまま育て。そう思いながらTETSUはメールを閉じ、三秒置いて、静かに削除ボタンを押した。「……例の通帳に、まともなスーツを買うくらいの小遣いは突っ込んでおくか。」そのくらいは稼がねえとな、と思いながら伸びをすると、妙に小腹が減って来た。グリーンカレーの容器に被せていたプラスチックの蓋を開けるとそれなりに湯気が立っている。食うか、とプラスプーンの包みを破き、エビがたっぷりと乗ったカレーを頬張る。ココナツミルクがベースのカレーは、連れ立って譲介と入った店で食べたことがある味に似ていた。――本当は甘いカレーの方が好きなんです。暮らし始めて暫くしてから、譲介が言い難そうに口にした言葉をふと思い出すと、青唐辛子の入ったカレーの辛さが、一層舌を刺した。次に食うのは、辛くねえのにするか。そうひとりごちて、TETSUは小さく笑った。

@fukikirisawa
譲テツのオタク:2023年の振り返りで書いたものを再放送しています