目の前に広がる青い海。空にはうっすらと、三日月が掛かっているのが見える。早朝の涼やかな空気が漂うビーチに集うのは、早朝のジョギングや散歩を楽しむ健康な老若男女や、徹夜明けのけだるげな若者たち。ひとりのサーファーが、ボードを抱えてふたりの横を駆け抜け、海の中へと入って行く。砂地の上で、いつもの杖を普段通りに操れずに苦戦している様子のTETSUに、車で入れる海岸を選べば良かったじゃないですか、とは言い難い。隣を歩く人の調子に合わせて、ゆっくりと歩を進めているうちに、空の色が変わってきた。夜に近い濃紺から、夜明けの白へ。さあ眺めてため息を吐くがいい、と言わんばかりの絶景を前に、ふわ、と欠伸が出た。海に連れて行け、と彼が僕を起こしたのは、日が昇るか昇らないかという時間のことだった。なるべく近いところでいい、とTETSUがいうので、このビーチを選んだ。大きな欠伸だったのか「やる気のねぇやつだな。」と目敏い彼からすかさずツッコミが入る。僕が運転している間寝ていたくせに。「昨日の潰瘍のオペの後、色々あって仮眠も取ってなかったんですよ。午前様で帰って来て朝の五時に起こされた僕の身にもなってください。」と無難に答えると、彼はこちらを見て「グダグダ言うな。てめぇが好きで来たんだろ。」とうっそりと笑った。傲岸不遜な笑顔は今も健在だ。「そりゃそうですけど。デートというには、時間が早すぎます。」微笑むと、彼は水平線を眺めるふりで、僕から目を逸らした。照れているのかもしれないし、そうでないかもしれない。こんな時でも彼に腕を差し出すことも出来ない僕は、彼の隣をただ黙々と歩いた。しばらくすると、海に浮かんだヨットを眺めていた彼の口から、天気が良くて何よりだ、と呟く声が聞こえて来た。普段なら言わないような言葉で、妙に晴れ晴れとした様子で。見惚れてしまうことを気付かれまいと視線を外して、僕は正面の水平線に目を凝らす。眩しい朝焼けだった。日が昇り切る前の短い時間は、夕暮れの光景とはまた違った美しさがある。彼が許してくれた、この隣の場所にいられる時間が限られていることを、今だけは忘れていたい。明るくなっていく世界とは裏腹に、だんだん眠気が勝って来た。座っていいですか、と断って、砂浜にどっかりと腰を下ろす。行儀が悪いな、と頭の隅では思うけれど、体力の限界だった。「おい、尻に砂が付くぞ。」と分かっていることを言われて、妙に腹立たしい気分になったのは、寝不足のせいに違いない。「車に乗る前に叩けばなんとかなります。好きにさせてください。」という僕の答えに、彼は、一回座ると腰が重くなる、とぼやきながらも、隣に腰を下ろしてくれた。そこでやっと、肩に担いだショルダーバッグのことを思い出して、中に入れっぱなしにしていた水筒を取り出した。最近流行りの、ひとりで飲むためのものではなく、蓋が大きなカップの代わりになる古いタイプのものだ。オールドファッションな黒い水筒は、スーパーマーケットと電器店を掛け合わせたような近所の店でTETSUが買って来たものだ。いつか使うだろ、と言っていたけれど、外でピクニックやキャンプをする予定もない僕たちに、そんな日が来るとは思わなかった。くるくると回して蓋を外して飲み口を緩め、コーヒーを中に半分ほど注いでTETSUに渡すと、用意が良いじゃねえか、と彼は言った。「あなたが買って来たんでしょ。」と言うと、んなことぁ忘れた、と彼はうそぶく。そうですか、と僕は返事をして、彼がコーヒーをやけに旨そうに啜る様子を聞いている。主治医として、そして私生活でのパートナーとして。この人と十数年ぶりの同居を再開して、まだ日が浅い。行き先もはっきりとは告げず、ふらりと猫のようにいなくなる放浪癖。会話の中に突然に差し挟まれる叱咤激励は、辛辣な罵倒と見分けが付かない。見ている方が胃が痛くなりそうなほどのコーヒー好き。自分から見たこの人は、そういえばこういう人だった、と確認するような日々が続いていた。それでも、夜に同じベッドを共有することを赦された今は、十代に暮らしていた頃の距離感とはやはり少し違っていて、特に休みの日は離れがたいと、強く思う。だからこうして、付いて来たのに。こっちは潮の香りがしねぇなあ、と。海を眺めて独り言のように呟く横顔を、譲介は見つめる。髪には白髪が、目尻には彼の年なりの笑い皺が増えた。杖を振りかざす力強い手は、時折、僕の髪を優しく撫でることを知っている。「風が冷たいですね。」「布団にくるまってぬくぬくと寝てりゃあ良かったか?」彼は飲み干してしまうのが惜しい、と言わんばかりにひとくちコーヒーを啜り、こちらの気持ちを知らぬげに呟く。「僕は、あなたが生まれ育ったところの海が見たいって言ったつもりだったんですけど。」寝る前の、ほんの数分の短い会話。セックスをしない夜だとしても、それをピロートークと呼んでも構わないだろうか。互いに体温の伝わる距離で、TETSUは、何か欲しいものはないかと聞いた。クリスマスでも、誕生日でもない日だったが、きっとそういう気分なんだろう。少し待ってください、と頭から何かをひねりだそうとしたが、何も出て来なかった。必要だと思ったものは、こまめに買いそろえるようにしているし、今ここにないものは、もともと買う必要がないものなのだ。それに、譲介にとっての一番のプレゼントは、もうこの人から貰っている。ありません、と正直に答えると、TETSUは、ねえのかよ、と不服そうな声になった。強いて言えば、あなたの知ってる海が見たいです、と言った。遠い日に一度だけ、故郷の話を聞いた。――冬には雪に降り込められる陰気な場所だ。まあ、夏の海は明るくて良かったが、それくらいのもんだ。短い言葉に、そうですか、と言って切り上げた会話を、後になって何度か思い出したのは、海のない場所に暮らしていたからだろう。どこで暮らして、何を見て来たのか。こちらの三十年のうちの短くはない時間を知っているTETSUとは違い、こちらは、TETSUの時間を何も知らない。こういうとき、胸に生まれるのは、愛しさよりは哀しさにより近い感情だ。「譲介、」と名前を呼ばれ、一杯のコーヒーを飲み切ったTETSUは、譲介がしたのと同じように、水筒の蓋をコーヒーで満たす。「おめぇも飲め。」「あ、はい。」出掛けに慌てて入れたコーヒーは、このところTETSUが気に入っているハワイコナだ。ふたりのキッチンを満たすコーヒーの香りが、鼻先をくすぐる。海辺だからだろうか、それとも屋外だからか。普段と同じはずの香りが、いつもよりもいい匂いに感じられる。カップでコーヒーを啜りながら、「このコーヒー、こんな匂いだったんですね。」と言うと、どうだ、と言わんばかりの顔でTETSUが笑う。もう一杯ください、というと、彼は僕の持つ蓋にコーヒーを注ぐ。ふたりで、何をするでもなく海岸に波が寄せて返す様子を眺めていると、一人と一匹、犬とフリスビーを持った子どもたちが、僕とTETSUの前を、兄弟が徒競走をしているかのように並んで駆け抜けていく。平和な光景だ。「譲介。」「はい。」「オレはもう、あそこには何があっても戻るつもりはねぇよ。」とTETSUは言った。「墓はあるにはあるが、母親の骨はもう、別の場所に預けてある。」永代供養ってやつだ、と村にいた頃によく聞いた単語を、彼が口にする。それは初めて耳にする話だった。彼のご自慢の過去とは一線を画す、プライベートな部分の歴史は、一緒に寝起きをするようになってからもずっと、薄い朝靄のようにヴェールを被ったままだった。僕は、ひどく驚いてしまった。「それは、」僕に言っていい話なんですか、と口を滑らせようとしている自分に気付き、口をつぐむ。すると、青いばかりの海に目をやって「一緒に見るのは、いつでもおめぇと一緒に行けるくらい場所にある海の方がいいに決まってる。」この先もここで暮らすならな、とTETSUが言った。「……僕も。」僕もそう思います、と言おうとして声が詰まる。ずっと一緒にいてくださいという言葉を飲み込んで、コーヒーの香りを嗅いだ。今日のこの海の青さとコナコーヒーの味を、ずっとこの先も忘れないだろうと譲介は思った。