杖を付こうとして身体が傾いだ。ガコン、とデカい音が響いて、子どもが部屋から飛び出てくる。「あの、どうしたんですか。」と口にした譲介は、こちらを見て眉を顰めた。態勢を立て直すのは間に合ったが、放り出された杖と鞄を見りゃ、何があったかは一目瞭然だろう。何でもねえよ、と言うハッタリはこの場合逆効果だったようだ。子どもは、こちらが取り繕った顔が、到底受け入れられない様子で渋面を作った。勉強しながらウォークマンでも聞いてりゃ、こんなことはねえんだがな。去年のクリスマスを無難に時計で手打ちにした自分に、今更ながら舌打ちをしたいような気持ちで、こちらの様子を伺う子どもを見る。四六時中傍にいりゃあ、いつかこういう日が来るのは分かっていたはずだ、と自分に言い聞かせて、話がねえなら行くぜ、と背を向ける。そんな体調でどこへ行くんですか、と憤りを込めて言い募る子どもに振り返って「ガキがナマ言うんじゃねえ。」と反射で叱る。仕事だ、と言葉を重ねれば、子どもは口を引き結んでこちらをひたと見つめた。「せめて、十分だけソファで休んでから出てください。そのくらいの時間はあるんじゃないですか。そうでなければ、せめて駐車場まで一緒に行きます。………今あなたに死なれたら、僕が困る。」そう言われて、思わず口元に笑みを浮かべた。「なんですか?」と譲介はむっとした顔でこちらを睨む。大人の勝手な理屈に対する反論にしちゃ、いいところを突いてると思ってよ、と返せば、火に油を注ぐだけだろう。最後の言葉が、どれだけ譲介の今の心情に近いのかは、分かっている。強情なガキだ。まあ、このくらいじゃねえと、張り合いもないってもんか。十分だけだ、と言うと、目の前の子どもは肩に入った力を抜いて、コーヒーを淹れますと言った。
そういえば、と点滴の準備をしながら譲介は言った。「ふざけた髪型とか言わないんですか、今日は。」と言われて、目を見開いた。まあ見慣れちまったからな、と言う感慨を口にすれば、年寄りになった気がするに違いない。「オレが口出ししようが、おめぇは好きにしてんじゃねえか。」と言うと、譲介はなぜかホッとしたような顔になった。髪を乾かすのもセットするのも、何につけても面倒がまとわりついてくることは、見ていて知っているはずだ。好き好んで伸ばしているというなら、こちらが口出しをする筋合いでもない。「さっさと済ませて、行っちまえ。」と手を振ると、譲介は眉を上げ「再手術の術式の検討があるんだから、この点滴が終わったら、あんたも一緒に来るんですよ。」と言った。一也は今、別室で神代と情報共有をしているところだった。おめぇもその輪に混ざって来いと言ったのに、こっちが先です、と聞きやしねぇ。こちらが無茶をすると、やはり険のある顔になる。目付きの鋭さはあの頃と同じだが、それ以外は、何もかも違っていた。この準備ひとつをとっても、おっかなびっくりだったあの頃の子どもの面影はどこにもない。手放した年月が、子どもを世話焼きな男に変えてしまった。後で話を聞かせろ、と言う訳にも行かねえか。ため息を吐いて、先に口を開こうとすると、譲介が、あの、と言って口を開く。僕も少しは背が伸びました、と言う呟きに、だから何だってんだ、と眉を顰めると、「今日は肩くらい貸しますよ。」と言って目の前の男は涼やかに笑った。