fukikirisawa
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「ドクタージョー、おめでとうございます。」と受付のルーが言った。 何がおめでとうかはさっぱり分からないけれど、昨日の夜の、三徹を終える前の僕があらぬことを口走っていた可能性は拭いきれないので、「どうもありがとう。」と笑ってみた。 「永い春だったね。」と昨日は僕と入れ違いで職場を出て行ったはずのアルバートがにこにこと僕に笑顔を向けている。「ああ、そうだな。」と僕は答える。 「おめでとう! 後でどうだったか聞かせてね。」 今日も元気な小児科のアイヴィーが、通りすがりに僕の肩を叩いていった。 ……後で、どうだったか、聞かせて? 知らない間にどんな事態が進行しているのか分からないまま、背中に嫌な汗が流れてきた。 ジョー先生、と呼び止められるたび、足を止めるのが怖くなってきて、「ごめん、急いでるからまた今度。」と病院の中を早足で歩く。 クエイドの中に渦巻く虚々実々の噂話の源は、たいがい譲介の勤務する脳外のナースステーションが発祥だ。だが、彼女たち本人に向かって「昨日僕が何かやらかしたのを見たのか?」と聞くことは出来ない。 あるいは「僕のいない間にあの人がやってきて何か思わせぶりな態度を取ったか?」とは。 こういう時に譲介が取れる手段は少ない。 情報通である恩師の朝倉先生に情報の裏を取ること、そして彼本人に聞くことだ。 熱いお湯は足先から掛けていくのが良い派だけれど、そもそも朝倉先生の手が空いているとは限らない。 今日も、また東京に出張中ではなかっただろうか。 ダメもとで電話を掛けてみると、時差にも関わらず朝倉先生は電話を取ってくれた。 「譲介君、とうとうプロポーズされたんだって?」開口一番の彼の言葉に、譲介は目を剥いた。 「………え?」 「え、って、またしらばっくれて。私には教えてくれたっていいだろう?」 そんな事実はありませんが、と正直に答える必要があるだろうか。 恩師への礼を失するという常識と天秤にかけたけれど、そもそもが譲介の私生活の話でもある。 あの人と譲介の間にプロポーズという単語が飛び交う余地は皆無というわけでもない。 ただ、プロポーズは譲介の方から一方的にしたという事実があるだけで。TETSUからの返事は、まだ聞いていない。 そもそも同居を再開したのだって相当に有耶無耶な話だったのだ。彼が病院のベッドを嫌がるのは想定の範囲内だが、新しいヤサを作るのも面倒だ、とまさか譲介の部屋に転がり込んでくるとは。正直予想の範囲外だった。 哀しいかな、TETSUが譲介とキングサイズのベッドを共有することに同意したのは、クエイドへの通院と通勤の利便性を秤に掛けた結果の可能性も捨てきれない。 そもそも、だ。 彼と来年には結婚します、と流れに流されるまま景気のいい嘘を吐いてしまう相手としては、朝倉先生は最悪の部類に入る。そう伝えたが最後、譲介は、きらめくようないつもの美声で気前のいい有給消化の提案をされ、明日にはクエイドに集う隅から隅までの人間から祝福を受けるだろう。これは私からのほんの気持ち、と朝倉一族いきつけの仕立屋で特注のタキシードの採寸に連れて行かれている間にK先生に連絡が行き、瞬く間に旧知の人々の間に知れ渡る可能性も高い。一也はともかく、宮坂に知られたらコトだ。ないとは思うが、あのいつもの勝ち誇ったような顔で、私のお守りの御利益ねと言われてはたまったものではない。 「朝倉先生、噂の出所をお伺いしても?」 「え、これってただの噂なのかい?」と彼は驚いたように言った。 「正しくは、一部事実誤認です。」 察してください、と譲介は過剰なため息を吐きながら訂正した。 「真実に掠っている噂ってことかな。……君と彼は、あれから少しは進展したのかい?」と朝倉先生は楽しそうで仕方がないという調子で言った。 「ご存じのとおりです。一緒に暮らすようになってからは、ずっと僕が返事待ちで。あの人、久しぶりに仕事漬けの毎日が本当に楽しいらしくて。」 「なるほどね。先走ってハワイの式場を予約しなくて良かったよ。」 「え?」 「あ、譲介君、今のは冗談だから。まあ、そういうことなら、噂の火消は私が責任をもって。君は大船に乗った気持ちでいてください。それでは、また夕方。」 じゃあ、と朝倉先生が電光石火で電話を切ってしまうと、しまった、と譲介は思った。 クエイドの中でも外でも『ドクターTETSU』は、縦横無尽に活躍している。 あの人は、いつかの夜に、舐める程度の酒を楽しみながら「ここに帰って来た。」という表現をした。それがただの比喩ではないことを譲介は知っている。 組織の中で多少の不自由を感じてはいるだろうけれど、以前にも増して活発に泳ぎまわる姿を見て、素敵だな、と思う人もいるかもしれない。 噂をそのままにしておく方が、命知らずの自称婚約者の待機列が増えなくて済むのでは、と思ったけれど、まあそんな噂を放置しておいたことを本人に知れたが最後、恐らく譲介は今暮らしているマンションから逆さ吊りにされてしまうに違いない。いいところ、寝室から追い出されるかだ。 そもそも、ひとりで悩んでいても仕方がない話だった。 後はもう本人にヒヤリングだ。それしか手が残っていない。 譲介は、腹を括って職場の中を移動し、彼の部屋の前に立った。中には愛する人がいて、ここは地雷原ではないはず、と自分に言い聞かせる必要があった。 ままよ、とドアを開くと、正面の広々としたデスクに彼はいない。 その代わり、いつものソファの横に、大きな花器が置いてあるのに気づいた。 こちらの目を引く真っ赤な薔薇の花束。 譲介は遠目に数を数えて、その本数が十二本になることに気付いた。 (確かに、コテコテのシチュエーションだ。) ドアを背にした譲介の頬の横に、死角に近い場所から振り下ろされた彼の杖が、ヒュッと風を切って飛んで来てヒットする。半開きだったドアは、ダン、と音を立てて完全に閉まってしまい、世界には譲介とTETSUのふたりきりだ。 「おはよう、ございます、徹郎さん。」 朝一番の熱烈な歓迎ぶりにすっかり目が覚めた。 「おい、譲介ェ、おめぇ、来るなら来るでいいから、ノックぐらいしろ。」と彼は低い声で凄んで僕を睨んだ。「……不審者だと思うだろうが。」 これは、寂しかったから三日で僕の顔を忘れてしまったというポーズだな、と譲介は思う。 「三日ぶりですね。」と笑い、譲介はTETSUに近づいた。 あなたを抱きしめていいですか、と断って、ぎゅう、とハグをする。 広い肩口に顔を近づける。うちで使っている洗剤のシダーウッドの匂いと安物の石鹸の匂い、それから彼の。 「……徹郎さんの匂いがする。」 「加齢臭かァ?」と照れ隠しの言葉と共に彼は僕の膝を蹴ろうとする。 今では譲介も自分の患者がある身なので、そうそう彼の好きにはさせておけないけれど、三日の不在が膝蹴りくらいで済めば安いものだ。 何しろクエイドは広く、仮眠室もスタッフの数だけたっぷりとあり、けれど、譲介はずっと、彼の顔を見に来ようと思えば来られる距離にいたのだ。今日のように。 「寂しかったですか?」 「……なわけねぇだろ。」と彼が言うので、僕は顔を上げて彼と顔を見合わせ、そっとキスをする。いつもの唇の感触、次第に熱がこもっていく吐息。手を伸ばせば、彼の襟足の長い髪に指が埋まる。後背位で繋がるとき、噛み跡を付ける辺りに指先を這わせると、彼は譲介の腕の中で居心地悪そうに身じろぎした。白衣の下の彼の身体を思い出して、これ以上はダメだな、と唇を離した。ふ、と息を乱した彼が潤んだ目で譲介を見ている。 身体が明らかな変化を見せる前に離れた方がいい、と思ったけれど、彼の方はどうだろう。 触れて確かめてみたい、と思う誘惑に抗い「今夜、帰ったら続きをしましょう。」と譲介は言った。 「馬っ鹿……ヤロオ。」とみるみるうちに顔を真っ赤にした彼は、おめぇは何しに来たんだ、と悪態を吐いた。 何を、って。 顔を見て、ハグをして、それからキスをした。今は、もっとあなたに触れたいという誘惑と戦っています。でも、ひとつだけ理由を言うとしたら。 「僕は、多分、あなたから、その薔薇を貰いに来たみたいです。」と譲介は笑う。「僕へのプレゼントじゃないなら、どうせ持て余した診療報酬でしょう。徹郎さん、」 大事にしますから、僕にください。 そう耳元で囁く。 彼に、意味がちゃんと伝わるように。 十二本の薔薇の意味を、彼が知っていても知らなくても構わなかった。 「来週までに、お返しを考えておきますね。」と言って、譲介はもう一度彼の額にキスをした。

@fukikirisawa
譲テツのオタク:2023年の振り返りで書いたものを再放送しています