どうせ、聞いたって答えちゃくれないんでしょ、というと、分かってるじゃねえか、と言って彼は笑った。こちらを苛立たせるその笑い方も、右ハンドルでカーナビも付いてないこの車の中も、驚くほど変わっていなかった。往診鞄を置いて身一つで車に乗ったはいいが、狭い檻に閉じ込められたけもののような気分だ。最近手がけた中で目新しい手術はありましたか、と聞いても、芳しい返事は得られない。叫びだしたい気分で窓の外を見ると、遠目にも、山懐に春めいた芽吹きが感じられる。隣にいるのがこの人以外なら、もっと気軽に景色を楽しめただろう。ふわあ、と欠伸をする。こんなことになると分かっていたら、昨日はノートを書くのを十二時で切り上げたのに。読みかけの医学書を持ち込めば良かった、と思うけれど、後の祭りだ。「今のでおしゃべりが終わりなら、ラジオくらい付けたらどうです?」このくらい言葉に棘があったところで、彼の露悪的な毒舌に比べればどうということもない。彼と会話を交わす上でのちょっとした愛嬌みたいなものだ。「運転の邪魔だ。譲介、おめぇ、免許はいつ取るつもりだ。」「いつって、……まず合格しないことには無理でしょ。医大に通わないと取れないものを。」はあ、とため息を吐くと、そうじゃねえ、と何かを言いかけたTETSUに、おめぇは変わらねえなあ、と笑われてしまった。次に逢ったら、僕はもうあの頃の僕じゃない、僕の人生から消えろ、と言ってやろうと考えていたのに、結局はまた、こうしてこの人のペースにはまってしまう。あの村で暮らしていくうちに、僕は自分がかなり変わったと思っていたけれど、そう判断するのは時期尚早だったようだ。「休憩はサービスエリアごとだ。こいつのエンジン音がつまらんなら寝て行け。」「……寝ませんよ、」「そうか?」母親の腕の中でも泣き叫ぶようなガキでも、エンジンの掛かった車ではついつい寝ちまうもんだ、などと知ったような口を利く。この強面の医者があさひ園にクリスマスプレゼントを届けていたサンタだったと知ったのはいつだっただろう。僕には当たりが強かったくせに、とひねた考えが頭を過って、譲介は小さくため息を吐いた。おい、起きろ、と誰かに言われて、額に冷たいものが当たった。お前誰だ、と言おうとして、誰より聞き慣れた声だったことに気付く。「………コーヒー。」がばり、と身体を起こすと、目的地に着いたというわけでなく、インターチェンジにあるサービスエリアのようだった。とりあえず、プルトップを開けて砂糖とミルク入りの缶コーヒーを口を付ける。甘ったるい味だ。でも糖分で頭が回る気がする。「譲介、昼飯の時間だ。」元保護者は、コーヒーを飲み干そうとするこちらの様子を眺め、返事を待たずに「いらねえならそれでもいいが、便所には行っておけ。」と言い捨てて背を向ける。慌てて「食べます。」と身体を起こし、車から出た。外は明るく晴れていて、コートを棚引かせる男の背中を見ながら、車の中で縮こまった身体を伸ばすべく伸びをした。中学の時の修学旅行を除けば、これほど長距離のドライブは初めてかもしれなかった。インターチェンジは、小さなプレハブのような建物だった。平日だというのに、人がひっきりなしに出入りしている。手土産を手に持って、あるいは車の中で食べる軽食や飲み物を求めて。杖を付いて歩くTETSUの右斜め後ろを歩く。「ここの食堂はそばが旨いらしいぜ。」とTETSUが言った。店内を有線から流れる流行りの歌が、自分の耳を素通りしていく。頭がまだ寝ぼけているのか、彼のそれが独り言ではなく、自分に話し掛けられているのだと気づくまでたっぷり三秒は掛かっただろうか。久しぶりに聞く声につい耳を傾けてしまうのはただの習慣と分かっているけれど、少し腹立たしい。「そば、ですか?」「子どもにはまだ早ぇか。」まあ、おめぇはまたカレーか、とニヤニヤ笑う顔が憎らしい。「あんたはそうやってすぐ子ども扱いしますけど、僕はもう成人ですよ。」「おめぇは一也と同じ年だってのに、オレが忘れるとでも思うか?」「思ってるから聞いてるんですよ、」と凄むと、「怖いねぇ。」などと茶化してくる。この人といると、いつか覚えてろ、と思うことばかりが心の中に溜まっていく。食堂の券売機を前にして、財布財布、と呟いている。必要経費を車の中のボストンバックに入れっぱなしで、万札を何枚か引き抜いてくるのを忘れていた、なんていう雑なところのある人だった。尻ポケットに入れてきた財布から千円札を取り出して中に入れた。「キツネが入ってるのがいいです。」「……そこはかき揚げだろうが。」もしかして、最初から決めていたのか。一緒にいると、時々、この人がひどく子どもっぽく見えることがある。「じゃあ僕も同じので。」食堂のおばさんに食券を差し出してからこちらを振り返ったTETSUに「先に席に付いていてください。」と言うと、オレの分には七味を掛けるなよ、と返事が返って来た。それを言えば、僕が唐辛子を瓶ごと掛けてしまうような嫌がらせはしなくなるだろうと思っているみたいに。そんなことしません、と返事をするのもばかばかしい。出て来た蕎麦は、薄くて茶色の汁の上に茹でたばかりの蕎麦とかき揚げが浮かんでいる。手打ちと書いてあるけれど、美しく細く切られた麺は機械で作ったものと見まごう程だった。一口啜って、かき揚げを齧る。(イシさんのかき揚げの方が旨いな、)出来立ての贅沢を齧る幸せそうな診療所の皆の顔を思い出していると、伸びるぞ、とTETSUが言った。手術の時の会話はカウントしていなかったせいか、一緒に暮らしていた頃にはそうは思わなかったけれど、この人は、平均よりもずっと口数の多い男だという気がする。食べている時はずっと無口だ。食べ終わって箸を置いて、そばというのも悪くはないなと思う。毎日カレーを食べて飽きることはないけれど、イシさんが、カレーが食べたい、カレーじゃないなら食べたくない、と愚痴を言い続けていた偏食の子どもを憐れんで、意識的にカレーのメニューを増やして来たのを知っている。今こそ、その努力も日々のルーティンの中に組み込まれてしまって、毎日の日替わりを気軽な気持ちで楽しんでいるけれど、それはきっと譲介のためだけの、本来なら必要のない作業だ。蕎麦か。ごちそうさまと呟き、カウンターに器を戻すと、また来てね、と中から声が掛かる。手土産のコーナーをすり抜けて入って来た自動ドアを抜けると、先に屋外に出ていたTETSUが、ベンチに座っていた。杖を置いて自由になった片手に、コーヒーの入った紙コップがある。TETSUがこのコーヒーを飲み終わるまで、いつもの車は動かないことは確定だった。仕方がないので、ベンチの横に立って待つことにした。日の光が暖かいけれど、風は冷たい。僕とTETSUの目の前を、ソフトクリームを持って走る子どもがふたり、通り過ぎていく。「譲介、おめぇにもあれ、買ってやろうか?」「そういうのはさっきの昼飯の代金を支払ってから言ってください。」と言うと、そういえば、成人してたんだったな、と言ってTETSUは笑った。