ひとさらいに攫われる子どもの心地と言うのは、こういうものだろうか。退院祝いだと言って、病院の階下にあるチェーン店のカフェに入り、隣合って昼食を食べている間も、何の話をするでもなかった。かつては見知らぬ他人の、カツアゲした財布の中から出た金で買っていたような厚切りパンのサンドイッチで腹を膨らまらせた後、唸り声のようなエンジン音を響かせる左ハンドルの車の助手席に乗り込んだ譲介は、そんなことを思った。入院期間は、過ぎてみれば長いようで短かった。ナイフの刺し傷が入院の理由という話がどこからか漏れてしまったのか、病室に毎回学校の宿題を置きに現れるのは譲介の担任の仕事だった。同級生に根掘り葉掘りとこちらのことを詮索されることもなく、男が小遣いだと言って週末ごとに置いていくプリペイドカードがあったので、譲介は食べるものにも娯楽にも不自由しなかった。総合病院の小児科の相部屋というのは何もかもが共同で、朝早くからベッドを出て辺りを徘徊する年の違う子どものせいで熟睡できないのはどこも同じかというところだったが、途中からは個室が用意され、譲介は残りの半分の期間をそこで過ごした。相部屋だった頃とさほど変わらず、静かではなかったが、イヤホンをしてテレビを見るにせよ、夜に感じる他人の身じろぎやドアの開閉に前ほど警戒する必要がないという状況は有難かった。車が走り出してから直ぐ、男は手を伸ばしてラジオを付けた。アナウンサーの声で、関東近郊の道路状況が流れて来る。小さな舌打ちと、渋滞か、という声。この車は、どこへ向かっているのだろう。カーナビを目的地に合わせてくれれば行き先が分かるが、男は覚えている道を走っているようだった。入院していた間に沸いてきた新しい生活への期待のようなものは、日常に引き戻された途端にどんどん希薄になっていく。いつかは親が迎えに来てくれるのではと淡い期待を抱いていた四歳の譲介は、首にスカーフを巻いていたよそ行きの母の記憶があった。野放図な集団生活というものへの苦手は消えることがなく、母の記憶が、薄ぼんやりした姿かたちと頭を撫でる手と絵本を読む声ばかりになってしまった五歳の頃には、誰でもいいからここから出して欲しいと考えていた。昔の話だ。あれからもう、十年近く経って、これまでとは別の未来が開けた。何を不安に思うことがあるというのか。そう思って、譲介は、もう一度ハンドルを握る男の横顔を眺めた。施設に戻る必要はないと言われたのはもう半月も前の話だというのに、あさひ学園に多額の寄付を続けているという事実とその肩書以外には、この男の素性も何も知らない。週に一度は園長も譲介の顔を見に来ていたけれど、この人のことについては立派なお医者だと言うだけで、どこに勤めている外科医なのかも、全く説明をしてはくれなかった。左ハンドルの車を好む妙な髪型の医者と、この先同じ場所で暮らして行くという実感はなかった。この男に付いて行けば、その途上で大きな躓きがなければ、いつかは医者になれる。譲介に分かっているのは、それだけだ。「どこへ向かってるんですか。」「今の学校に通える範囲で新しいヤサを作った。近くに駅がある。名前くらいは聞いたことがあるんじゃねえか。」ヤサ、と言われてもピンと来ないが、話の流れからすれば新しい家のことだろう。そのくらいは推測できる。譲介が黙って頷くと「そこのグローブボックスを開けてみろ。」と男は言った。おそらく、助手席の前の引き出しのことに違いない。譲介が中を見ると、くるりと丸まった関東近郊の道路地図があった。取り出すと、地図はかなり使い込まれた様子だった。「行き先が気になるなら付箋の付いたページを見てみろ。」と言われたが、地図から飛び出した付箋はいくつもあって、どの付箋のことを言っているのか、譲介には分からない。「その立ててあるやつだ。」と言われると、大きな水色の付箋が目に付いた。「カーナビ、使わないんですか?」地図を広げながらそう言うと、何がおかしいのか、男はクックックと笑った。「S県くらいの距離じゃ、まあ使わねぇな。道を間違えただの、あと何分だの、しつこく訊いてくんのが七面倒くせえ。大体、標識見りゃ分かんだろ。」そう言われて譲介は顔を上げた。緑の道路標識がぐんぐん近づいてくる。確かに、男の車はS県方面に向けて走っているようだ。「それにしても、最近のガキってのは。……カーナビは分かるが、グローブボックスはピンと来ねえとはな。」独り言のような男の言葉に、譲介は頬が赤らむのが分かった。「どうしてこんなところに引っ越しをしようと思ったんです?」地図を開いて分かった目的地は都心のベッドタウンとしてタワーマンションが立ち並ぶ町だった。電車で通学するにしろバスを使うにしろ混みあう路線で、確かに今の中学から通える範囲ではあるけれど、通学には一時間近くを要することになる。「高校は県を跨いで変えちまった方がいいだろう。手術の内容は金で口止めしたが、ウサギにナイフを振り回すような真似をしてたってことは、他にも試したことがあんじゃねえのか。」譲介が無理に話題を変えようとしたことに気付いているのだろう、男は頬に笑みを浮かべたまま、譲介の質問に、新しい質問を投げ返して来た。他にも、というのが人間を指すなら、答えは当たりだ。そうです、と素直に答える義理はない。譲介が口を噤むと、男は間を空けて話し続けた。「学校の中に素性を知らない人間が多けりゃ、それだけこれからのおめぇにとっても都合がいいはずだ。」なるほど、あさひ学園にいた来歴と動物虐待の他にも、消す必要のある過去がありそうなことくらいはお見通しという訳か。譲介は他人事のように思った。そもそも、都内を出たところで、人の口に戸は立てられない。運が良ければ知られずに済むくらいの可能性だろう。「引っ越すならついでに学校も変えたら良かったじゃないですか。」グローブボックスに地図を戻しながらそう言うと、男は譲介を見た。「どうせ受験がある。保護者の引っ越しと重なったと言やぁ、志望校が他県だからって誰も不審には思わねえだろう。」そう言って彼は、ハンドルを握りながら車のドリンクホルダーに入れて置いた缶コーヒーのプルトップを空けて飲み始めた。「ちょ、危ないですよ!」ドッドッド、と心臓が跳ねる。譲介の身体の、右側にある心。「……危ない?」と顔を前に向けたまま、男はバックミラー越しにこちらにちらっと視線を寄越した。「片手で運転なんて、大丈夫なんですか?」慌てた譲介の顔を見て、男は、意外に小心だな、と言って、さっきのようにクックッと笑った。「何度か通った道だ。今の時間はガキもいねえ。第一、高速じゃ片手で……まあいい。」片手で?片手で何をするって言うんだ、この人。「気になるってんなら、こいつは信号で止まった時に飲むから、ハンドルを握ってる間に妙な声を上げるのは止せ。まあもう八割がた飲んじまったけどな。」と言って、男はまた笑いながらドリンクホルダーに飲みさしのコーヒーを戻した。長い指。大きな掌。目に映る大人の手を、譲介はまじまじと見つめた。――この手があれば、始終ナイフを身に付けている必要などなくなるだろう。譲介は、これまでに殺めた檻の中の動物たちが、いつだって自分の手には余る大きさだったことを、ふと思い出した。自分で狭い檻のような施設から飛び出して来たと感じるのは、ただの錯覚に過ぎない。譲介は、この大きな手が自分を閉じ込めていた檻をこじ開け、外に連れ出してくれたことを知っている。「おい……何固まってんだ。」「……いえ。」自分から檻を出て、先のことが分からない未来を選ぶ勇気もないくせに、殺した動物たちのことは、自由にしてやったと思っていた。譲介は、何も言えずに唇を噛んだ。「安心しろ。相手がいねぇからって、制服を着てるようなガキにゃ、手を出さねえよ。」物思いに沈んでいる間に、急にそんなことを言われて、譲介は目を剥いた。譲介の反応が逆に予想外だったのか、男は、窓の外に視線を流し、忘れろ、と早口で言った。僕が子どもじゃなかったらあんたは手を出すんですか、と今聞けば、絶対に藪蛇になる。それ以外の感想は、何も思い浮かばない。少なくとも、今は。――首都高速道路では、雨の影響で出口閉鎖が実施されています。車中には、気まずい沈黙を上書きするように、道路情報を伝えるアナウンサーの明るい声が流れ続けている。「おい、譲介、何でもいいから返事をしろ。」不意打ちで名を呼ばれて、譲介は、はい、と大きな返事をした。バックミラーの中で小さく瞬きをした男は、ふ、と短く息を吐いた。あなたのことは何と言えば、と問いかけると「ドクターTETSU。」と答えが返って来た。ドクターTETSU、という譲介の繰り返しの呟きに「おう。」と応えた彼は、ハンドルを握り直し、アクセルを踏んだ。譲介を新しい生活へと誘うように、黒い車は、また一段スピードを上げた。