白衣

fukikirisawa
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「今日は村井さんもいるなら丁度いい、少し話したいことがあるんだ。」診療の後の身づくろいを終えた広河さんは、そう言った。「先生、俺はこのところ思うんだが、来年辺り、本当なら一也ちゃんがこっちに戻って来る時期だろ。」「ええ。そうですね。」と頷き、村井さんと目を合わせた。歓迎会の打ち合わせでもしようかという話にしては、妙に時期が早い。バスでも仕立てて小旅行の計画でも、という大仰な話となれば、話を進めるまでもなく、企画の時点で一也の方から断って来るだろう。とはいえ、そうしためでたい席の話であれば、他にも顔を出しそうな面子がいるはずだ。今日は広河さんただ一人。折り入っての話とは、どんな流れになるのだろうと腕組みをして臨んでみれば、その口から出て来たのは意外な言葉だった。「そろそろ、譲介のヤツをここいらで免許皆伝してやっちゃどうだ?」「……免許、ですか?」思わず首を傾げると、いやあ、比喩だよ、比喩、と言って広河さんは手を振った。「この村内の話に限れば、まあ免許がないならないで通るだろう。だからまあ、白衣とかなあ、往診の時は目立つだろうが、診療所の中でくらい、着ててもいいもんじゃないかってね。」と言って、広河さんは頭を掻いた。「それは、」「そうですなあ。」実は、と口を開くより先に、村井さんが相槌を打ってこちらを見、首を横に振った。広河さんの話が終わってひと段落するまでは聞き役に徹しましょう、というポーズだ。先をどうぞ、とこちらも頷き、広河さんを促す。「譲介もなあ、こっちに来たばかりの頃は、他所から来たとっぽい兄ちゃんだったが、もうすっかり村に馴染んでる。一也ちゃんと入れ替わりでここに来てからもう四年かそこらだろ。……そりゃあ、前の富永先生ほどの愛想はねえが。立派なもんだ、って皆言ってるよ。」皆、か。その筆頭がこの広河さんであるのは既に周知のことだ。村井さんもそのような顔をしている。ブールハーヴェ症候群での短い入院の後、広河さんは譲介のことを名前で呼び、折々に声を掛けてくるようになった。麻上君の付き添いなしで往診に行っていると言えば、大したもんだと頷き、去年などは、不在時の診療所をもう一人で任せられるだろう、とこちらに進言したくらいだ。忘年会で吐くまで飲むということも、あれ以来なくなったらしい。「先生だって、十八の頃から診療所の主をしてるだろ。医師免許を取る取らないって話じゃねえ、白衣は心意気だ。それなら、あいつには資格が十分ある。……大体なあ、あと二年で一也ちゃんにはお医者の肩書も付く。あっちが華々しく出戻ってくるのに、譲介がその横でパーカーなんて着てたら、やっぱり見劣りがするだろう。それはあんまり良くねえんじゃないかと思うんだよ。」そう言って言葉を途切れさせた広河さんの横で、村井さんと顔を見合わせた。確かに、譲介はここに暮らす医者として、多くの人に受け入れられ、見守られている。誰も、譲介と一也とは比べないだろう。譲介は譲介、一也は一也だ。だが、広河さんの心配も分からないではない。小さな頃からオヤジが白衣を着て仕事をこなす姿を見て来た。白衣は、医師の象徴だ。富永が来る前ならばおそらく、むしろこちらの方から、患者の安心のためだと言って無理に着せていたはずだ。思えば、風来坊なあの男が譲介が医大に入学することにこだわっていたのも、五千万という大金を譲介の手元に残したのも、全ては医師免許のためだ。流石に殴り込みに来ることはまずないとは思うが(そんなことをするなら、もう少し早く来ているだろう。)、死期が見えてきたと思えば、このままここに留め置いてどうなる、と言って手段を選ばず、金で手が届くような私大に裏口入学させかねないような気もする。免許のない医師として、ずっとこの狭い村で暮らさせるために離れたわけではない、と。もし自分があの男と同じ立場なら、いつかはそう言うだろう。譲介の師としては、むしろ、そうでなければならないのだ。俺たちはねえ、あいつの笑った顔が好きなんだよ、と広河さんが小さな声で言った。「……ここに来たばっかのころは、いっつも難しい顔してたからな。年寄り連中はまあ一也ちゃん贔屓だから、何にも考えずにただ楽しみだって笑ってるけど、万一にもあの頃の譲介に戻るようなことは、あっちゃならねえんだよ。……誰かが考えてやらないと。」一気呵成にそう言って、広河さんはふう、と息を吐いた。「今日こうして足を運んでこられたのは、そのためですか。」診療は来週の話だった。少し日程を早められないか、と相談を受けたのは、昨日の夕方の話だ。「うん。思いついたら、早めに伝えた方がいいと思ってね。……女房には、先生は、そこんとこはよぉく考えてるだろうと言われたんですが。」広河さんは、一説ぶって気が晴れたのか、奥さんに言われた言葉を思い出しているのか、照れたような顔で窓の外を眺めている。「いえ、今日話をお伺い出来て、私も良かったと思います。明日が今日と同じ一日になることはない。この仕事に就いて、そのことは良く分かっているつもりでしたが。」きっと、譲介に甘えていたのだろう。これまでにも白衣を着せる機会はないではなかった。だが、そのたびに、外部からの患者や来客があった。一度外と繋がってしまったパイプは、完全に断ち切ることは難しい。――僕はまだまだ未熟です、その時になったら、喜んで白衣を着るつもりですが、まだ時期尚早ではないかと思っています。頑なに断ったのは確かに譲介の方だが、こちらの気持ちを汲んで現状維持を肯定しようとする弟子に甘えているようでは、指導者としては失格だ。どうぞよろしく、と広河さんが頭を下げて診療所を出て行くと、村井さんと顔を見合わせた。何から切り出せばいいものかと口を噤んでいるこちらに対して、村井さんは悠然と微笑み、「洗い替えと合わせて、まず三枚くらいは買っておきますかな?」と言った。広河さんの提案に否やはない、という意思表示だ。「着丈や腕周りなどで作業効率が変わることもありますから、いくつか試しに、違う会社のものを取り寄せてみましょう。」新しい白衣か。父の残した白衣を着て、洗い替えを買い足して行った二十歳の頃の自分を思い出す。「なかなかオーダーメイドが出来ないのが辛いところですな。」「洗濯を繰り返すものではありますが、譲介には、カレーを食べるときには白衣を脱ぐように言わないと。」と言うと「最近はカレー以外のものも食べられるようですよ。」と村井さんは笑っている。人の気配がして窓の外を見れば、麻上君と並んで話しながら、こちらへとやって来る譲介の姿が見える。確かに、あの頃に比べたら良く笑うようになった。一也が真っ白な白衣を着て往診に行く間、少しくたびれた白衣の襟元にカレーの染みを付けた譲介が、ここに座って診療をする。そんな光景を頭に浮かべると、確かにそれはあり得べき可能性のある未来のことではあり、自分にもそれを望む心が全くないとは言えない。けれど、その光景は、譲介にとっては、未来の停滞でもあるのだ。次の手術の術式を措いても、優先して考えるべきタスクが、目の前にある。そのことを自覚したのが、今日で良かったと思う。先生、村井さん、ただいま戻りました、という声に、おかえり、と言葉を掛け、デスクに広げていた広河さんのカルテをゆっくりと閉じる。頭の隅に連絡を取るべき顔を思い浮かべて、こめかみを揉んでいると、診療鞄を床に下ろしたばかりの譲介と目が合った。「先生、疲れにはカレーが一番っスよ。」カレーという単語だけで笑顔になった子どもを、夕飯にはまだ早い、と言って窘めると、その様子を、村井さんと麻上君が眺めて、顔を見合わせて笑っている。

@fukikirisawa
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