どこかの神さまがくれた選択肢で生きてきたのか?

fukiteasobiki
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2024年1月5日(金曜)の日記

職場の若い同僚が、2023年の読書リストをくれた。年末、一緒に「大阪の生活史」刊行イベントに行ったとき、くれると話していたもの。単なる箇条書きのリストかと思っていたら、書影入りで、感想とか誰に借りたとか、関連して行ったイベント情報などもあり、かわいくデザインされていてとってもよかった。

そうかー、こういうの作ったらいいのかー、こういうふうに作ればいいのかー、と感動する。そしてまた、焦る。

ここ数ヶ月、自分の焦燥感について考えている。焦ってる、人生の短さに。というよりも未来のことはあまり見てないんだな。これまで無駄に過ごしてきた時間への後悔が大きい。無駄っていうとあまりに辛いが、遠まわりっていうのが一番近いかも。

わりといろんなことを先回りして考えるほうで、何か岐路に立つようなときは、必ずいろんな選択肢を検討するタイプ。誰だってそうかもしれないけど、私は常に「自分の見えてない選択肢がほかにあるんじゃないか」という不信感をもって選んでいたと思う。

ほんとに、これだけ? 選べるのこれだけ? こんなかから選ぶの? っていう感覚が常にあった。つまり、「こうしたい!」と切り拓いていくことはしなかった。

自分の目の前に出された選択肢のなかからしぶしぶ希望に近いものを選んできたけれど、そうしたいわけじゃなかった。だから後悔がある。

選択してきたことに後悔はないと、ずっと思ってきた。そのとき取れる最善を取ってきたし、後から考えると辛い経験に遭っても、じゃーほかの選択肢をとれば辛くなかったかと問われれば、そんなことはない。

なのに今、自分の生きた過去を、遠まわりしちゃったと感じる。

でも、それは歳をとったってだけのことなのかな。若いころこうしておけばよかったって思うけど、若いころはそうする力がなかった。今、力が少し増えたから、「あのときこういうふうにできたでしょ!」と思う。

焦りとともに生活していると、目に入るすべての人のことが嫉ましく羨ましく思えてしまう。自分がみすぼらしく愚かに思えてつらい。

心から、この焦りを手放すにはどうしたらいいかな。

ここで日記を書き続けることが、もしかしたら手放すためのひとつのピースになるかもしれない。手放しパズルの一つのピース。

・・・

夕飯は残っていたひじきの煮物でひじきチャーハンを作り、春菊のスープをつけた。おせちの残りもすべて食べ終わり、ひとつずつお正月が終わっていく。

食後に食べた栗きんとんが美味しかった! 岐阜県恵那市の高級栗きんとん。生協で頼んどいたやつ。美味しいが、パッケージがあまりに地味なので、もうすこしワーオとなる感じに包んでほしいと思った。

@fukiteasobiki
それでは日記を書こうかな!