サバイバーズギルトと違うけれど、災害に遭っていないし死の危険と隣り合わせでもない自分の身の置き場に少し困っている。カルト化教会で長年酷い目に遭ったのは事実だけれど、今は解放されているし、特に困っていない。そのせいかどうか分からないけれど、苦境にある人たちのことが直視し難い。ガザにしろ、能登半島地震にしろ、その他の何かにしろ。
自分が苦しむのはもちろん嫌だけれど、人の苦しみを見せられるのも辛い。
いわゆる「自粛ムード」には反対だ。どこかで誰かが悲惨な目に遭い、苦しんだり傷ついたりするのはたぶん避けられない(自分自身もいつどんな目に遭うか分からない)。それに胸を痛めることと、自分の生活を平常に送ることは違う。全ての悲しい状況に気を留め、苛まれることで、自分の生活がままならなくなったら本末転倒だと思う。
ただそれでも気になってしまう。自分は不幸な目に遭わなくていいのだろうか? みたいに思ってしまう。そんな考えがおかしいのは分かっている。けれどカルト化教会で「苦しむことに価値(意味)がある」と教えられ、それを長年実践してきた(させられてきた)日々の精神構造から、まだ完全に抜け出せていないのかもしれない。苦労するのは嫌だけれど、苦労することで「許されている」と感じる部分があるように思う。