以前、倫理が法則から導き出されるものなのか、それとも個別の議論の積み重ねから生まれるものなのかという記事を書きました。それに関連したフィクションの話をします。
フィクション作品では、「不老不死はつまらない。死があるから人は精一杯生きる」とか「死んだ人を蘇生するべきではない」という結論になることが多いですね。しかし、これは単に「不老不死や蘇生が素晴らしい」という結論に至っても、私たちは不老不死や死者蘇生ができないんだからしょうがないというだけの話に思えます。
現実の私たちは、可能な限り寿命を延ばし、以前は治療不可能だった病気を治療しています。技術的に不可能な領域だけが「倫理的にやるべきでない」とされるのは、矛盾があるように思えます。
某有名大作RPGについて、「7歳だけど判断力のある主人公」が「暗示状態で」大きな災害を引き起こすというストーリーに対して、かなり熱の入った議論がされているように見えます。(今あげた二つの事情以外にも様々な背景がありますが)
その人々の認識の違いを発生させている原因の一因は、現実世界には存在しない「判断力を持つ7歳」や「暗示状態」といった要素に思います。現実世界に存在しない現象は、まだ議論されていない領域であるため共通見解が存在しません。
現実世界であれば「7歳児の近くに災害を起こすスイッチがあったら、それはその状況が悪いでしょ」となりそうですが、このゲームでは判断能力が高く責任能力がありそうに見えます。
倫理観は、それを持つ個人や集団の経験、文化、環境などに深く根ざしています。倫理観について話すとき、私たちの議論はしばしば熱を帯びてしまうものです。倫理観について直接話し合うのも重要ですが、「その倫理観がどのような背景から生まれたのか」というメタ的な視点を掘り下げることも、相互理解を深める上で非常に有効な手段となり得るでしょう。