私は人間の倫理観がその人が置かれている環境に大きく影響されると感じています。例えば、私自身が仕事の経歴を積んでから転職が自由にできない状況に対して感じる嫌悪感は、私が比較的転職が頻繁に行われる業界にいるからでしょう。
いくつか例をを上げます。
VTuberという職業における「中の人」を明記しない文化には、ある種の間違いがあると感じています。守秘義務によって表に出せない事実があることも、あまり良い状況とは思えません。その一方で、ファンが暗黙の了解のもとに受け入れている「転生」(キャラクターを変えて活動を続けること)は、あまりよく思われていない風潮を感じますが、私は経歴が連続していることに対する好感があります。
映画などのエンターテインメント業界について、クレジット表記に関する訴訟などのニュースは頻繁に耳にします。ゲーム業界においても、個人のキャリアを隠蔽する文化があると聞きます。詳細についてはよく知らないので、断言はできませんが、このような文化は良くないのではないかと考えています。もちろん、そこには合理的な理由や背景があるかもしれず、その点を理解すれば私の考えも変わるかもしれません。
国防に関連する仕事については、一定の秘密保持が必要であるという点で、私は「仕方ない」という感覚を持っています。国の安全という重要な側面を考慮すれば、このような秘密保持の必要性は理解できます。
このように考えを巡らせると、私とは異なる業界で働く人たちが、私とは異なる倫理観を持っているのではないかという疑問が浮かびます。彼らの倫理観は、彼らが置かれている環境や経験、そしてその業界の文化や慣習に根ざしているかもしれません。たとえば、私が自由な転職を重視するのに対して、安定を求める業界で働く人々は、職業選択において全く異なる価値観を持っている可能性があります。
また、VTuber業界やゲーム業界での守秘義務やキャリアの隠蔽について私が持つ懸念とは別に、それらの業界で働く人々は、そうした実践を必要かつ合理的なものと捉えているかもしれません。彼らにとっては、そのような行動が業界の健全性を保つため、または個人の安全を確保するために不可欠であると感じられるのかもしれません。
国防などの特定の分野における秘密保持の必要性を私が理解する一方で、そこに従事する人々はそれを単なる「仕方がない」というレベルを超えた深い使命感と捉えているかもしれません。彼らにとっては、そのような規律や制約が、より大きな目的に対する責任感や献身の表れとなっているのです。
私がパブリックな感覚だと思っているものの、どれがローカルで、業界的な感覚なのか、想像してみると面白さを覚えます。