私は、ディズニーのウィッシュに対して「そこそこに面白かった」、「ディズニーともあろうものがそこそこ程度にしか面白くない作品を作ってどうする」と思っています。
また、面白い/面白くないといった not for me 的な文脈とは別に、純粋に物語の出来栄えそのものに疑問を抱いています。物語の整合性が不足しており、納得できるために必要な説明や描写が明らかに足りないません。
しかしながら、この作品におけるヴィラン、マグニフィコ王についてインターネットで「悪ではない」とされている点については、私は異なる見解を持っています。これは、単に「あなたたちは間違っている」と言いたいわけではなく、本当にそう思っていないということです。
前提として、近年のディズニー作品は、過去の作品が現代の倫理観にそぐわないという点に対峙し、そのカウンターとして新しい作品を生み出しています。たとえば、受動的なディズニープリンセスから、能動的に自らと周囲を助ける女性キャラクターへの転換が見られ、代表的な例としては『アナと雪の女王』が挙げられます。『ズートピア』では、これまでディズニーが描いてきた「動物たちが喋り、共存する社会において肉食動物の存在は共同体の一員を殺して食べてるがいいのか?」という問題に向き合っているのを感じます。また、オリエンタリズム的な批判に応える形で、白人文化以外を生き生きと描写していたり、『シュガー・ラッシュ:オンライン』のように、従来の勧善懲悪の枠組みを超えた挑戦的な作品も生み出されたりしています。
『ウィッシュ』は、ディズニーの100周年を記念して制作された「シンデレラの再話」と位置づけられると思います。しかし、これは単なる再話ではなく、「現代の感覚では、ただ信じ続けるだけで願いが叶うというストーリーは受け入れられない」という現代の要請を反映したアップデートされた作品です。結果として、この作品は「魔法使いによる願いの独占」に対抗し、人々が自分の力で願いを叶える自由を求めて戦う物語へと進化しました。「不思議な力が助けてくれた結果、魔法使いから卒業して自分で夢を叶える環境を手に入れる」というのは一貫性の欠如というか、背骨が折れてるようにも感じますが……。
私がマグニフィコ王を悪と考えるのは、ディズニーが長年「信じ続ければ願いが叶う」という美しい概念を描いてきた背景があるからです。その文脈の中で見た時、彼は悪として捉えられます。
でも、作品内で彼が悪として納得できるほど描写されているかと問われると……困る……。作品単体で見た場合、彼が悪ではないと感じる方が正しいかも……ううん……。あと、寓話として観るかちゃんとああいう世界として観るかとか……むにゃむにゃ……。