「ポルノ小説を書くときに、自分が好きなものを書け」とよく言われます。しかし、明らかにウケるジャンルとウケないジャンルがあるんだから、ウケたかったら市場調査してウケるジャンルを書くべきではないか、とも思います。
この話題について考える補助線として、J.K.ローリングの「ハリーポッター」シリーズに登場するクディッチを考えてみましょう。この架空のスポーツは、「スポーツとしてのルールが崩壊している」としばしば批評されます。
ローリングがクディッチを創造した背景には、恐らく「学生生活を描くうえで魔法世界らしいスポーツが必要」という考えがあったのでしょう。彼女がスポーツに深い知識がなかったために、スポーツファンから見れば「何かが違う」種類のスポーツが生まれました。実際のスポーツを知っている人ならば、おそらくクディッチのようなスポーツは考えつかなかったでしょう。(完全に予想です)
この現象は、AIが生成する画像にも似ています。AIは「それっぽく見えるが何かが違う」という作品が生みがちです。これは、興味のない分野を表現しようとした時にも同じことが起こります。私たちは、知っていることや興味のあることについて自然に正確で魅力的な表現をすることができますが、それ以外のことを表現しようとすると、芯を外したどこか不自然なものを作ってしまいます。
しかし、同時にクディッチが全世界の老若男女から愛されている描写であることは疑う余地がありません。そして、多くの人は「競技性の高いスポーツ」よりも「ファンタジックで華やかで、見たことのないようなスポーツ」が見たいと思っていることでしょう。実際、私たちの世界のメジャーな球技は、興味ない人から見たら数パターンの類型に収まってしまいそうです。その類型に当てはまる新しいスポーツが描写されたところで、ワンダーを感じることはできなさそうです。
このことから私たちは、創作において「興味のあることを書く」の意味を再考する必要があります。興味があることを書くことは、自然さや真実味を作品に与えることに繋がります。一方で、知らないことや興味のないことを書くことは、予期せぬ独創性を生む可能性もありますが、それはしばしば現実感の欠如や不自然さに繋がります。
結局のところ、創作は自己表現の一形態です。私たちは、自分が真に関心を持ち理解しているものについて書く時、最も力強く、説得力のある作品を創ることができるのです。そして、知らないことに挑戦する時は、その違和感を楽しんだり、新しい創造性の源泉として利用することもできるでしょう。創作活動における興味の役割は、作品の質とオリジナリティに深く関わっているのです。
私はノクターンノベルズで「知らないうちに催眠ハーレム生徒会」という小説を書いており、ありがたいことに、何人かの読者に「ノクターンノベルズで一番好き」と評価されるまでに至りました。
私はポルノに対して、実のところあまり知識がなくこのジャンルそのものに「興味が他の作者ほどない」という状態だったと思います。小説のテンプレートを完全に理解していない状態で書き進めた結果、予測不可能で独特な作品が生まれ、読者に新鮮な印象を与えることができた、〝よいクディッチ〟だったのではないかと思っています。