インターネットで特定の行為が「悪い」と指摘されるとき、しばしば議論は「リーガルかイリーガルか」という点に集中しがちです。また、「親告罪だから被害者に伝えればそれで終わり」という論調もよく見られます。しかし、モラルについて話し合うことの重要性を感じる今日この頃です。
ただ、合法であるものを悪として扱うことは、しばしば悪印象を与える原因となります。合法なものに対して「それは合法だよ。くだらないことを言うな」と反応したくなることもあります。しかし、これは不特定多数の人間とモラルについて話すことの難しさを示しています。なぜなら、何かを「倫理的に瑕疵がある」と指摘することは、そのものを否定することに等しいからです。
例えば、差別に関する問題も同様です。世の中には、「これは性差別だが、弱い差別であり他の要素との兼ね合いで許容される」という領域が存在します。女性専用車両は、性差別だと思われるかもしれませんが、「犯罪に合うリスクがなくサービスの利用を受ける権利」が優先されるべきだと考えます。また、レディースデイのように女性に対して安くサービスを提供する日も、一種の差別ではありますが、それが社会的に許容される範囲内であるとも言えます。
しかし、「これは差別だ」という指摘に対しては、「いや、これは差別ではない」と答えざるを得ない状況が多々あります。「他の要素との兼ね合いで許容される」という説明は、しばしば複雑で理解されにくいものです。このように、インターネット上でのモラルや倫理に関する議論は、非常に微妙なバランスを必要とします。
インターネットの世界での議論は、残念ながらしばしば「アジテーション」、つまり扇動や宣伝に変わってしまいます。これは、不特定多数に向けて発信するというインターネットの性質上、避けられない側面かもしれませんが、それは非常に寂しいことです。
本来、議論とは異なる意見を持つ人々が集まり、互いの視点を共有し、理解を深め合うプロセスであるべきです。しかし、インターネット上では、このプロセスが短絡的な「賛成か反対か」の選択に単純化されがちです。その結果、対話ではなく、一方的な意見の押し付けや感情の発露の場となることが多く、建設的な議論の可能性が損なわれます。
この傾向は、特にモラルや倫理に関するテーマにおいて顕著です。個々の価値観や経験に大きく依存するこれらのテーマは、感情的な反応を引き起こしやすく、そのために議論が感情的なアジテーションに陥りやすいのです。このような状況では、相手の立場を理解しようとする努力が後回しにされ、結果として本当の意味での理解や共感は生まれにくくなります。
寂しいですね。