正義とは何かという問いに対して、私はしばしば思索にふけることがあります。理想としては、正義が「黄金律」のような普遍的な法則から導き出されるものであってほしいと願っています。しかし、現実を見ると、正義はむしろ「個別の議論の組み合わせ」から生まれるもののように思えます。特にインターネットでの正義の形成は、この傾向が顕著です。
世の中で批判される事柄を見ると、「同じ理屈でいえば、あれはどうなるのだろうか」という疑問が浮かびます。もちろん、これは程度の問題かもしれませんが、そのために「黄金律に基づいて導出されるべきだ」と考える人々が世間に対して不信感を抱いているのをよく目にするように思います。
「黄金律に基づいて導出される」と仮定したとしても、直感的に「こうするのが正しいのでは?」と思う発想の多くは、歴史的な議論で既に多くの指摘があり、しばしば差別や危険思想として批判されています。現代社会では、新しい議論が日々生まれ、直感だけでは正しい判断ができなくなっています。最先端の「正しさ」を理解するには、個別の議論を追いかけ続ける必要があるのです。
私自身、これまで見聞きしてきた議論を基に、正しさをエミュレートして正義を判断することがありますが、その時の心理的なプロセスは、内面化された正義に基づいて怒る時とは異なると感じます。おそらく脳の状態を見たら、内面化された正義に怒る時と、脳の使用されている個所が全然違うのではないかと思っています。
この地雷ゲーム、なんなんだろうね。