SNSの普及により、情報の共有が容易になった一方で、曖昧な知識や認識をもとに他人を攻撃する行為が頻繁に見られるようになりました。このような状況に直面するたび、私は「人を攻撃する」という行為自体への恐怖がもっと必要ではないかと考えます。ダウトをもっとリスクある行動だと認識して恐れて欲しい。
しかし、この思いは単純なものではありません。「誤ったダウトをしない」を目的とした場合、沈黙が最適解になってしまうからです。
沈黙は、一見、平和を保つための選択のように思えるかもしれません。しかし、この沈黙が長期間続けば続くほど、私たちは議論をする能力や、意見の精度を高める機会を自ら放棄することになります。人との衝突を避けることは、短期的には安全かもしれませんが、長期的には自己成長の機会を逃してしまうことになります。そして、その差は時間が経つにつれて、取り返しのつかないほどに拡大してしまうかもしれません。悲しいかな「正しく生きたけど、幼い人間」が相手にされるほど、社会は優しくありません。
正しさドリブンで議論するうちに、「お前は悪い。間違っている」という指摘を過剰に恐れるようになってしまいますが、実際のところ、世界はお互いに誤りを許容しながら回っています。「確かに間違っているが、これくらいの間違いは許容される範囲だろ」と返すことができる強さと柔軟性を持つことも、重要なスキルの一つです。このスキルは、自分自身だけでなく、他人の小さな間違いを受け入れることで、より寛容な社会を作ることにも繋がります。
結局のところ、ダウトを恐れる心理とは、一種のバランスを必要とします。人を攻撃する行為への恐怖は、私たちが思慮深く、他人に対して思いやりを持って接するために必要です。同時に、自分の間違いや他人の間違いを許容し、それらから学ぶ機会として捉える柔軟性もまた、社会全体の成長に不可欠です。この微妙なバランスを見つけることが、より健全なコミュニケーションと社会を築く鍵となるでしょう。