客観的な指標で自己評価

fumishowchang
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最近、ある格闘ゲーム(SF6)を始めたばかりの人の発言が、思わず私の思考を巡らせるきっかけとなりました。「公式ページにフレーム表が載っていること」を理由に格闘ゲームが廃れたジャンルであると主張し、その後、反論に対して「狭量なコミュニティが衰退の一因だ」と捨て台詞を吐いていました。この一連のやり取りは、ゲームに対する意見だけでなく、意見を持つ人々の構造について考えさせられるものでした。

格闘ゲームの世界における「権威のある人々」と「これまで格闘ゲームをやったことがない初心者」の間の意見の衝突は、特に興味深い現象です。客観的に見れば、初心者が間違っている可能性が高いです。説得というものを「相手よりも強い根拠を示す」ゲームと考えた場合、初心者がちょっと触って思いついた意見は、まったく強さがありません。

これが例えば発言者が井政博や梅原大吾であれば、「自分が感じたことは客観的に正しい可能性が高いはずだ」と信じる積み重ねあります。囲もそれを尊重するでしょう。彼らは、自分が正しいと信じる根拠を持っています。

それほどの根拠でなくても「ゲームについて述べた根拠が正しい」と信じるに値する積み重ね──別のジャンルで経験が厚い、ゲーム開発経験がある、とにかく頭が良くて考えたことが称賛され続けた人生を歩んできた、などがあれば信じることができるでしょう。

この格闘ゲームに関する議論を振り返りながら、私は自問自答を繰り返しています。もし私がその初心者の立場だったら、他人の目にはどのように映るのでしょうか。私は私自身を、偉そうに語っているような客観的な基準で評価できるでしょうか。

自分の意見に自信を持つためには、過去の経験から「直感が正しかった」という確信が必要です。しかし、この自信は客観的な指標よりも個人の信念に依存することが多いです。人は間違いを犯した時、「勘違いしていた」と素直に認めることができる一方で、その勘違い自体を忘れがちで、成功体験だけが記憶に残りやすいです。

また、客観性を重んじる姿勢には問題がないのでしょうか。客観性を追求することは、理論上は公正な意見形成を助けるものですが、それがかえって個々の意見や感情を無視してしまう可能性もあります。全ての人が同じ情報や経験を共有しているわけではなく、異なる背景を持つ人々が同じ事象に対して異なる解釈を持つのは自然なことです。客観性を最優先することで、多様性を尊重することの重要性が軽視されがちになるのではないでしょうか。