1週間の感想_序章

文月
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2024年は振り返りをしようと思う。

3年続けてきた一首鑑賞は、ずいぶん慣れてきた。品詞分解で迷うことは少なくなったし(いやこれはもともとあんまり難しくはなかった)、眺めていれば言うべきこと——隙間を埋める言葉——は難なく出るようになってきた。

でも、自分の中にそれらの言葉が、思いが堆積している感覚はない。

しっかり数えたわけではないけど、1日1枚の画像をつくるのに1000文字くらいは書いてるんじゃないか。頭をよぎる文字数も数えれば、もっと行くはずだ。

それなのに、自分の中には何も残っていない。

昨日読んだ歌がそらで詠えるわけでもない。一昨日読んだ歌がいつの歌だったか思い出せない。一週間前の歌が何だったのか微塵も出てこない。

なんだかそれってさみしい。俺は確かに牧水の歌を前にして、1時間くらいiPadの画面に言葉をつづっていたはずなのに。俺が思い出せなかったら、そんな時間、誰が見ていたわけでもない時間、なかったことになっちゃうじゃないか。

倉下さんの『思考を耕すノートのつくり方』(倉下忠憲/イーストプレス)は、そういう自分のむなしさにちょっと手を差し伸べてくれるよい本だ。彼はこの本で言う。もうとにかくノート作ったらいいんですよ。何でも書き始めてみましょう。書いて考えてみましょう。そうひたすらに言う。いろんな切り口で。いろんな言い方で。それなのに彼は立ち上がった読者の手をずっと引いてくれることはしない。よし、立ちましたね。では、僕はこちらへ行っているので、君も道中気を付けて。みたいな態度で行ってしまう。

彼に追いつくことはできないだろう。彼はもうこのやり方を何年も何年も積み重ねてきた人だ。歩く速度も、先を見据える視線も、自分のそれとは全然違う。でも、たぶんそれでいいんだと思う。自分は彼ではない。彼になることもできない。彼が踏んづけてきた彼の人生を模倣することはできない。でもたぶん、彼が記してくれたこの本を、彼が引いてくれたこの手を、彼が開けてくれたこの扉を、自分のものにすることはできる。

彼が開けてくれた扉の一つに、「人生の振り返りをノートに書く」というものがある。一週間でも、一か月でも、一年でも、節目に振り返りをする、それを言葉に残してみましょう、という提案だ。

自分はずっと、一首鑑賞を書くだけ書いて、そのまま振り返ってこなかった。3か月、6か月、1年に一度。そのくらいの頻度でたまに見ることはあっても、ピックアップであって、全体をではない。別に最初はそれでもよかった。長く続ける気はなかったし、それをどうにかしてやろうという気もなかったから。

でもここまで来た。3年かけてここまで来た。読んできたものは1000首を超えたし、興味が生まれた。つなげていきたいと思った。

そういう時に、自分はほとんど初めて「自分の頭は思ったよりポンコツである」ことを実感する。昨日の歌を覚えていなくて、一昨日の感情を思い出せなくて、一週間前の出来事をすっかり忘れている。

まあ、もう、そういう、なんでも記憶出来て、いろんなことを繋げて新しいことを思いつけるような高い能力は、自分には全くないのだ、ということも、うん十年付き合ってきた自分のことだ、わかってきた。

まあ、なら、外部足場の出番じゃないか。

倉下さんはそれを「ノート」だという。書き留めること。記録すること。簡単に言ってしまえて、でも高難度のそれ。

自分は能力が高くない。記憶力はよくないし、広い視野も持っていない。

でも唯一、続けることはできる。一首鑑賞だってなんだかんだ3年続けてきたんだ。たぶん、それは、できる。

ならまあ、一週間を振り返って感想を書くことを続ける、ことくらいならできるんじゃないか?という算段だ。

場所はここ。

日曜日に、その前の日曜から前日土曜までの振り返りをする。

やることは「見直す」「感想を書く」「気づいたことがあれば述べる」だけでいこう。

まずは小さく。

続けられると思って、でも失敗したら、失敗したことを盛大に表明してやろう。俺はこれもできません、ということは、じゃあ何ならできる、という次の一手に必要な情報だろうから。

さて。振り返りをしよう。