1週間の感想_20240407-20240413

文月
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今週は、週の後半で遭遇した概念のせいで情緒がめちゃめちゃになった。

『ビジュアル・シンカーの脳』(テンプル・グランディン/NHK出版)を題材に雑談をする「ゆる言語学ラジオ」の最新回だ。

ものを考えるときに、言語を介さないひとがいる、という話をしている。

この動画自体も衝撃や興味の沸き具合が大きかったのだが、そのあと友人と会話したことのほうが自分の根幹を揺さぶり続けているので、今日はそのことを書き留めておきたいと思う。

一首鑑賞の振り返りは余裕があったらする。


翻訳は変換ではない

 感覚器官で刺激を受け取り、脳がそれに反応したとき、自分はそれを言葉で説明しようとする。たとえば嗅覚が生じる。これは記憶によれば金木犀の香りだ。この周りの家にはたぶん…(周りを見渡す)…ほら金木犀の木が植っている。これがその原因だ。たとえば口内で触覚が生じる。この柔らかさは(食べているものを箸で動かす)椎茸だな。椎茸入りだったのか。

 でもひょっとすると、嗅覚が嗅ぎ取ったものは金木犀の花の香りだけではなかったかもしれない。その反対側を走る車の排気ガスもあったかもしれないし、その家の金木犀の隣に生えていた栗の花の香りもあったかもしれない。でも自分はそれを「金木犀の香りだ」と言葉にしたことで、それ以外のものを捨ててしまった。触覚がとらえた柔らかさは、椎茸だけではなかったかもしれない。一緒に咀嚼していた人参だったかもしれないし、ちょっとダマになった片栗粉だったかもしれない。でも自分はそれを「椎茸の食感だ」と言葉にしたことで、それ以外のものを捨ててしまった。

 五感を言葉にするのは、ほとんど不可能なんじゃないかと思う。たとえば「やわらかい」という言葉が示すものは、スライムのようなぬめらかさだったり、赤子の肌のようなもちもちのようすだったり、綿のような空気を含んだ抵抗のなさだったりするかもしれなくて、それをひとこと「やわらかい」と言葉に置き換えたとき、そこで生じたのは変換ではなくて非可逆圧縮だ。

 何かを言葉にしようとするとき、ほんとうは、そこにあったはずのすべてのことを言葉にしたい。

 物理的なことだってすべて言葉にしたい。首を傾げて骨が鳴ったとき、骨が鳴ったということを述べる時に、そこに生じていたすべてのことを__首の筋肉が収縮して伸長して、骨の角度が少し変わって、血管がちょっとうごいて、引っかかってた骨がコキンと音を鳴らしたときに、そこにあったすべてのことをほんとうは言葉にしたい。でも、不可能だ。首を捻るときに起こるすべてを、知覚しているわけではないし、知覚していたとして、それを言葉にしたとき、その行動自体すべてを描写はできない。

 もっと抽象的なことならもっと無理だ。なにかぼんやり思っていたとき、思っていたことを言葉にしようとする。その瞬間スポットライトを当てたその思考の、さらにごく一部を言葉に留めることができたとして、それ以外の部分は? ああ、もうどこかへ、霧の中へ消えてしまった。運よくそのスポットライトをたくさんのところに当てることができて、たくさんの言葉にすることができたとしよう。それでも、それらを合体させたものは、自分が最初に持っていた「なにかぼんやり思っていた」それにはならない。ライトが当たらず言葉にできなかった部分、ライトは当たったけど言葉にできなかった部分、そういう空白こそが「なにかぼんやり思っていた」ことの総体の間物質だったのに、自分はそれを拾い上げることができなかった。

 絵画を言葉にしてみようか。キャンバスはこのくらいのサイズ。画材はこれで、その画面には人が描かれている。じゃあその人物はどういうことをしている…?左手を肩くらいの高さに上げて、手のひらを上に向けていて……とてもじゃないが、そのキャンバスに描かれたすべてを言葉にすることはできない。

 そこまで考えて、気付いてしまう。詩歌も、言葉にするのは無理だ。いや、詩歌自体が言葉を用いて作られたものではあるのだけれど、詩歌が「言わなかった、けれどもそこにあるもの」を、言葉にし直す、散文に置き換えることは、無理だ。それは変換ではなく翻訳だし、不可逆圧縮だ。

 おれは長い間、短歌で詠まれたことをわかりたい、散文にし直して同じ情景を同じように人と共有して同じものを見たいと思ってきた。そしてそれが不可能であることを、おれはようやく知ったのだった。


ほかにも書き留めたいことがある。また後日やろうと思う。

  • イデアがないこと

  • 減点方式と加点方式

  • 音楽を記述すること/することによって毀損されるもの

  • 合奏は遊びか仕事か